ブーアスティン「幻影の時代」自然発生的現実

現代はあらゆるものが、人工的に仕組まれた時代である。人工的なものがあまりにも当たり前になってしまったので、自然なものの方が人工的に仕組まれたかのように見え始めている。自然なものは「非(アン)」「否(ノン)」という接頭語を付けて表現される。現代は「フィルターなし(アンフィルタード)」煙草(フィルターが付いているほうが自然になった)、「非要約の(アンアプリッジド)」小説(要約がふつうになった)、そして「カットなし(アンカット)」の映画の時代である。われわれは木を「非合成」セルローズとみなすようになった。そうなると自然全体が「非人工的」世界になる。事実それ自身も「非虚構(ノンフィクション)」になった。

しかし人々は・・・たとえ二十世紀のアメリカ人でさえも・・・自然発生的現実の最後の一片まで奪われてしまうことには、そうやすやすと応じないであろう。したがって、われわれは、自然のオアシスを提供してくれるようにみえる出来事に非常な関心を示すようになる。一例をあげれば、犯罪やスポーツに関するニュースに対するアメリカ人の熱狂ぶりである。これは大衆の趣味が低下して、つまらない、ふまじめなものを求めるようになったというような単純なことではない。それは、自然発生的なものに対する、擬似イベントでないものに対する、われわれの絶望的な渇望の表現であるという点にもっと深い意義がある。

もちろん、多くのスポーツは擬似イベントになってしまった。そして、プロレスのように、八百長であるという評判を利用することによって、かえって繁栄しているスポーツもいくつかある。しかし、われわれが出来事の純粋正真正銘性をある程度まで維持するのに成功している領域も、まだ多く残っている(たとえば、アマチュア・スポーツやプロ野球)。ボクシングの試合に八百長があったり、アマチュア・バスケットボールのチームが買収されていたりしたことがわかったときのわれわれの怒りは、われわれの道徳が汚されたという感情からだけ生じているものではない。それは、わずかに残された作り物でない現実との接触・・・自分達の勝利が新聞に報道されることだけを目的にしているのではなく、勝利のために本当に戦おうとしている人たちとの接触・・・の機会を奪われたことに対する、われわれの怒りに満ちた欲求不満を現しているのである。

スポーツの世界にもまして犯罪の世界こそは、正真正銘の、純粋な自然発生的出来事の最後の隠れ場所である。もちろん、稀れな例外もある。政治的な目的のために計画的に法律に「違反する人」、たとえば、婦選論者、あるいは最近では南部の黒人差別に反対するフリーダム・ライダーたちである。しかし、一般的にいえば、犯罪は、いかに新聞が精力的に利用してみても、擬似イベントにはならない。犯罪が報道される目的で犯されれることはごく稀れである。殺人や暴行を犯す男、銀行に押し入る強盗、会社の金を横領する男は、こっそりとやりおおせることだけを望んでいる。したがって、犯罪ニュースやスポーツ・ニュースに対する我々の渇望は、われわれが現実の感覚を失った事を示しているのではなくて、あらゆる種類の擬似イベントとイメジが氾濫する世界においてもなお、われわれは自然発生的出来事をみれば、それを自然発生的出来事として認めることができるし、それに魅せられるのであるという事実を示唆している。

私生活、個人的なゴシップ、有名人の性的スキャンダルに対するわれわれの病的ともいえるほどの強い関心も、この自然発生的なものへの渇望によって説明される。政治化や有名人の公の行動がますます人工的に仕組まれたものとなりつつある世界では、われわれは、われわれ自身の利益のためにとくに作り出されたものではない出来事をますます熱心に求めるようになる。われわれは、擬似イベントいう癌に免疫である生活の領域を探し求めるのである。


D.J.ブーアスティン 「幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実」

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