宗教の事件 17 「オウムと近代国家」より 三島浩司

・・・・・・閉鎖的になれ、とはGHQも言うとらんのに、おのれらで勝手に閉鎖的にしてしもうたんやから、これはどもならんですよね。

三島 どもならん。だから、異物排除の傾向に対するアンチとして、過去の内外の歴史が示す異質なものとの共存がもたらす豊かさを、常に考えておきたいなと思うんですよ。
そうすると、在日韓国人や在日朝鮮人の問題に関しても、全然違った視点から見ることができるのではないかと思う。現在は、頭をとんがらせて「差別はいけない」といった次元の話しかできないわけだけど、そうじゃなくて、在日の人たちは日本人が未来へゆくための重要な宝なんだという視点で見ることができるのではないか。「差別される気の毒な人たち」などと失礼なことを言うたらいかん。異質なものと共存することで社会を豊かにする方途を学ばせてくれるパートナーだと考えるべきなんじゃないかな。

私は関西人だから、まわりに在日の連中がけっこういた。時には「こら、朝鮮人、ごじゃごじゃと、いちゃもんをつけるな」と喧嘩になるけれど、ガタガタやるのも面白いし、なによりも活性的でええですよ。そのうち仲良くなって朝鮮料理をご馳走になったりして、「お前らの食い物も、うまいもんやなあ」となる。目を怒らせて睨み合っているよりも、こっちのほうがおもろいと思うけどね。

この発想に立てば、国の政策もおのずから変わってくるわけでね。たとえば、いまは二重国籍はだめとなっているけれども、「そんなもんええやないか、ローマのように二重国籍でも、ごじゃごじゃいうて社会を委縮させるんやなしに、パッと開放的にいこうやないか」となる。いままでの固定観念にとらわれず考えられるようになるのではないか。そんな希望を持つんですね。

世界が多国家、多民族共存の方向に進んでいるなかで、日本が異物排除の傾向を強めているのは、やはり問題だと思うね。世界の趨勢に逆行しているだけでなく、日本の社会そのものを痩せ細らせていくんじゃないかと思うね。民俗学で言う「異人」の問題は、いまの日本にとって極めて重要なんではないか。異人が社会を活性化させ、社会にヴァイタリティと深みをもたらす、という原則をもう一度よく考えないといけないんじゃないかな。

・・・・・・原理原則としてはそうです。同時に、その「異人」を等身大のものとして実感できないような仕掛けが現実に介在しているという大きな問題もありますが、しかしそれはこの場ではおいておくとして、たとえばいまの新聞報道やテレビ報道などのルーティンと化した現実の語り方を考えれば、その三島さんの言う異人論的な視点を今後、どのようなかたちにせよ前向きに取り入れた仕事をする余地があると思えますかね。

三島 全然ない。今日もテレビのいじめに関する報道を見ていたら、「被害者が気の毒です」などと言っていたけれど、しかし、実際はテレビなんかがいじめの空気をつくっているわけですね。

・・・・・・わかります。僕などは、「いじめ」という安直なもの言いをいまのような報道の文法に対する自省抜きに流布させることこそが、最もいじめの現実を助長する、と言ってるんですけどね。

三島 現在のいじめの構造は「被害者が加害者に転化しないと許されない」、つまり、自分も一緒になって石を投げないと、今度は自分がやられてしまうという空気が非常に顕著なかたちで表れていると思うね。そして、その構造の底にあるものは、均質化された同質性への強い志向であって、その同質性に与(くみ)しないと、今度は自分が追い落とされてしまうという構造になっているように思う。

その均質化された同質性への思考をテレビなどが煽っているわけでね。「オウムを社会にどう受け入れるか」などとキレイ事を言ってはいるけれど、現実にやっていることは全然違っていて、生きる事を許さないという、やはり排除の主張ですね。だから、私はテレビの連中に言うんですよ、「正直に言うたらどうや。オウムの連中には生きていてもらいたくない、とは言えないにしても、せめて離れ小島で生きてもらおう、くらいの本音をいうたらどうや。ただ、そうなると、いよいよもって日本はまずいでっせ」とね。

・・・・・・それは三島さんの子供時代や学生時代と比較しても、いまのほうが同質性への志向が強いと思いますか。

三島 思うね。神戸の大震災やオウム、それに沖縄の女生徒暴行事件などもあって、1995年は日本人が同質性に激しく傾斜した年だったように思う。同質性への思考は人間の本能のようなもので、人間には母子が一体になろうとするような同質性への思考が本源的に備わっているけれども、その思考を壊さないと社会は成立しない。そこで、心理学的にはエディプスとの葛藤の問題があったり、社会学的・民俗学的には若衆宿などの制度があったりして、社会が一元的な同質性の方向へ突き進むのを阻むクッションがあったりするわけだけど、いまはエディプスも若衆宿的なものもなきに等しい。それだけに、一挙に同質性のほうに傾斜する恐れがあるわね。組織や社会を一挙に純化する方向に走る危険があるように思う。しかし、いまの世界ではウルトラ・ナショナリズムに回帰するようなことは許されないからね。

・・・・・・そのあたりの議論を先ほどの僕の議論と突き合わせて少し整理してみますとね、こういうことだと思うんです。

その三島さんの言う同質性への思考と言うのは、僕の言ったような意味での「私」を担保してくれるものを欲してゆくロマンティシズムの前提などとひとつの流れとして共通するものだと思いますが、しかし現象としてはまったくの逆のことでもあったりするわけですよ。大雑把にまとめてしまえば、それまであった共同性もその共同性を支えていた濃密な関係性と共に溶解していったところに、新たにぼんやりとよどんだかりそめの「われわれ」意識というのが、その三島さんの言う「同質性」なんだと思うんです。前提として何か具体的な人間関係によって裏打ちされていることを誰も実感しにくい。しかしだからこそ強固な普遍性があるかのように誰もが思ってしまわざるを得ない価値観の体系とでも言いますか、広い意味でのメディアとそれによってつくり出される情報環境の変貌が人々の社会意識をどのように変えていったのか、という問題ともそれは絡んでくるはずです。

ひとつもの言いとして示せば、それまであった共同性、それこそ時にはロマンティシズムの前提ともなり、時にはさっき出てきた“泣きながら帰ってゆく”自分にとっての最も根源的な場所なり関係についてのイメージの脊椎ともなっていたような現実認識についてのゼロ座標に対応しているのが「われわれ」だとすれば、それが溶解した後に新たに顕在化してきた「同質性」に対応するもの言いは「みんな」ですよ。

「みんなそう思っている」ということと「われわれがそう思っている」ということとは、似たような意味であっても、内実はかなり異なっているわけでしょ。少なくとも、「われわれ」には「自分」がどのように関係するかについての自覚が不可欠だけれども、「みんな」はそこが簡単に棚上げできてしまう。そうなってきたのは、地縁血縁も含めた「自分」というのがどのような条件を前提としてこの世に生きてあるのか、ということについて具体的に説明する言葉が喪失されていることが大きいはずで、それは三島さんの言葉で言わば“闇”なり“路地”なりにも関わってくるんだと思います。気分としてしか存在できない「みんな」は、かつての「われわれ」とは違う水準の意識のはずなんだけど、しかしその気分としての「みんな」を前提としたファシズムだけがどうやら律動している。これがファシズムじゃなくて一体何なんだ、と僕などはムカついてるんですが。

三島 テレビのワイドショーのオウム報道などを見ていると、麻原がレストランで大食したとか、女性信者とセックスしたとかの下世話な話がよく報じられてますね。あれは大衆がそんな話を一番好むからなんだろうが、それ以外にも麻原という異人に対する大衆の無意識が表出されているように思うんですね。

怖ろしげな異人と接したとき、子供は恐怖から目を瞑る。大人の場合もほぼ同じで、恐怖から相手を冷厳に認識することができなくなる。ただ、大人は目を瞑るかわりに相手を貶める態度を取る。そう民俗学の本に書いてますね。つまり、太平洋戦争の時の鬼畜米英なんですよ。日本人はことに鬼畜米英になる傾向が強いと思うね。欧米のテレビなら、もう少しオウムや麻原を冷厳に認識しようとするんじゃないだろうか、貶める一方で。


(つづく)


「オウムと近代国家」(南風社)

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