吉本隆明 いろいろな仕事にそれぞれ毒はあると思いますが

いろいろな仕事にそれぞれ毒はあると思いますが、以前はぎりぎりのところで毒と利のバランスがある程度うまく保てていたような気がします。しかし、このころはいろいろな職業の毒みたいな部分が表に次々と出て着ているようです。学校の先生、警察官、僕のようないわゆる聖職者とされてきた人たちが、犯罪を平気で犯すようになりました。しかも情けないような犯罪もあります。

聖職者という職業の毒として、もっとも問題なのは、「教える毒」ではないでしょうか。「教える毒」とは、わかりにくいかもしれませんが、僕らの商売でもちょっと似たようなところがあります。「教える毒」に対して僕が一番気をつけているところは、いいことを言うときには何気なく言うということです。

例えば学校の先生の場合は、いいことを本当にいいこととしてはっきり言わないと子供たちに通じませんから、いいことをもっともな口調でいうのに慣れています。でも、いいことをいいこととして言うと、みんなが道徳家になってしまいます。これはよい、これは悪い、こうするのはよい、こういうのはよくないぞと断じていくようになり、いつももっともらしい口ぶりになっていくわけです。それはある種の毒です。

牧師さんの毒も同じです。キリスト教の牧師さんというのは仏教と違って、死者のお相手よりも、日曜ごとに協会に礼拝に来た信者さんにいい話をするということが大事な役割です。とくに西欧のご老人は、牧師さんからいい話やありがたい話を聞きたいという希望が大変多いそうです。日曜ごとに協会へ行って牧師さんの話を聞くのが楽しみということですから、そうなると牧師さんはいきおい、なにごとも教えるという説教口調になりやすいわけです。

教える毒、僕らの職業も、それに類似したところがあるのでしょう。そうすると、毒が回りたくないからどうすればいいか、としょっちゅう考えることになる。結論として、いいことを言うときはさりげなく、平気な感じで言ったほうがいい。逆に、ちょっと腕白な悪童のようなことを言うときには大きな声で言う。そうすると、毒のまわり方は少ないと思っています。僕はできるだけそうしています。

若いときに頼まれて講演をするときでも、できるだけいいことをいいこととして言わないように、それだけは心がけてやっていました。いいことといいことのように言うことは、なんとなくみっともなくてしょうがないという気持ちがあります。

聴くほうにしても、いかにも学校の先生や牧師さんみたいな調子で話されたら、どうしても息苦しくなってしまうでしょう。先生みたいな人が、生徒を前にしたような調子でしゃべっていれば、ああ、ばかなことを言ってやがる、と思われるに決まっています。

立場が上の人ほど、いいことをいいふうに言ってしまうと、身も蓋もありません。味気なくなります。小学校の生徒がいいことを言うのはかわいらしいですみますが、先生の方はあんまりやらない方がいいと僕は思っています。先生がそうしなくても、子どもはちゃんとわかっているのですから。

子どもは子どもなりの感覚で大人を見る目をちゃんと持っていますし、それで判断をしているわけです。別に大人がいいことを話さなくても、自然にやっていればそれでいいのではないでしょうか。

もし、そういういいことを言わざるを得ないときには、さりげなくというのがいいと思っています。そして悪態は大っぴらについてしまう。そうすると、毒のまわりは少なくなると思っています。


吉本隆明 「真贋」

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