宗教の事件 72 吉本隆明・辺見庸「夜と女と毛沢東」

●竹内好、昭和天皇、麻原彰晃、三人の「業」の深さ

辺見 ところで、「夜」のテーマに話を戻せば、この世の中は、昼間というものが正常で、夜は狂気だ、という幻想を持ってしまったんですね。人間の病的な部分とか、狂気、人間の行動の幅に対する想定能力を完全に失っているな、という感じですね。

この国を挙げてのヒステリアみたいなものがどこに起因するかというと、仮にオウムの指導者を俗物というとして、その俗物のどこかに自分を見るからだと思うんです。僕も見ます。これは俗物性とは違う話ですけれど、たとえば毎日毎日働いてて、朝も狂気じみた出勤をして、すし詰めの電車の中で、一瞬、一秒か、あるいは0,01秒くらい、皆殺しにしてやりてえ、というふうに思う人間がいたっておかしくないですよね。それをちゃんとさらけ出さないと、オウムは短絡的に処理されて、またさらに別のオウムが出てくるでしょう。アメリカは今確実にそうなっている気がします。

この前、ワシントンポストが掲載した例の「ユナボマー」、郵便爆弾の主の論文は凄かったですね。テーマが、コンピューター社会への反乱提唱ですものね。ラッダイト運動のようなラジカルな反文明、文明否定の動きがアメリカの一部はすでに出てきている。しかしこれを日本のマスコミはどう伝えたかというと、単なるジャーナリズム論です。要するに公器たる新聞がテロリストの暴力に負けて危険極まりない狂気の論文を載せてしまった、これでジャーナリズムはいいのか……と。僕はそういうことじゃないだろうと思うんです。

病理なら病理の分析を自分の問題として行なわなければならない、何も社会は変わらない。反論や異論、対抗意見というものを都度ときちんと吟味し吸収していくことも、それはジャーナリズムの大切な機能だと思うんです。日本のジャーナリズムは今、そういう自己懐疑や反省のヒントとなるような吉本さんの言説すら抹殺しようとする。
吉本 麻原氏を見ていてつくづく思うんですが、この人はどんなにけなしても、プラス・マイナスいずれの評価も無化してしまうような、「業の深さ」があるような気がするんです。

僕は昭和天皇という方は最後の偉大な帝王だと思っています。天皇がなくなるとほぼ同じ時期に、手塚治虫が死ぬ。大岡昇平が死ぬ。どうも僕には昭和天皇に抱き込まれて死んでいったと思えてしかたない。昭和天皇は偉大だけれど、とても業の深い人だよなと思ったですね。同様な意味で、麻原という人も業の深い人だなあと思う。

辺見 麻原はそうだと思います。煩悩の塊のような・・・・・・。業は人を引きずるんですかね。

吉本 麻原氏と並んでやっぱり業の深い人だなあと思ったのは、竹内好さんでした。彼の葬式は僕の友人だった橋川文三が司会をして、増田四朗という中国文学研究会の同僚が弔辞を読んだんです。そうしたら増田さんは弔辞の途中で倒れて、もう起き上がらない。それで騒ぎになって、担架を持ってきて近くの病院へ連れて行ったんですが、そのまま亡くなってしまった。その様子を見ていて、竹内好という人は随分と業の深い人だなあと思ったですね。業の深さというのは、それだけ大きな人物だったということになるのでしょうが。

辺見 いや、大人物でしたよね。亡くなっても業が他人を引きずるってこともあるんでしょうかね。

吉本 そう、引きずっちゃうんです。そんなことばかり強調すると迷信めいてきて困るんだけど、はあこういうものかと思い当たるものがありました。

竹内好、昭和天皇、麻原、この三人、僕の人生で「業の深さ」を感じさせたのは。僕は麻原と心中するのは嫌ですから、できるだけ近づかないようにしてきたんです。いつ取り込まれて死んでしまうかも知れないですから。麻原に負けてはいけないぞと警戒しているんです。

辺見 うーん、竹内さんに昭和天皇に麻原ですか……。まいったなあ。カリスマというのはある種、否定しがたい霊性というのをもっているでしょう。霊性なんて言うと笑われてしまうんですが、それにそれだけですべてを語るのは馬鹿げているわけですが、僕は近代というものがタナトロジーも軽視し、冷静を無視してきたからとんでもないことになってしまったんだとも思っています。でも、皆が明らかにいやがる俗物・麻原は本当に類稀なる霊性を備えた人なのでしょうか?

吉本 そう思います。

辺見 あの俗物性の中に全く背反する霊性を備えているということですか。俗物性と冷静がごっちゃになっているから、話が捩じれてしまう。俗物性だけ語っておけば、とにかく今は無難ですからね。

聖者というものは、絶対に聖者の装いでは出てこないだろうと僕は思うんです。とんでもない俗物として、あるいは涎を垂らしてアホみたいな顔して、聖者というのは現れるはずだと思っているんです。

吉本 たとえば禅宗系の高僧の書というものを見るでしょう。僕ら見ていて「なんだ、こいつ、ただの俗物じゃないか」と思うことがしょっちゅうです。他の人はこれはいい、いいというんだけど、僕には俗っぽい字にしか見えない。一休ですらそうです。業の深さみたいなものが字に表れてしまっている。現世を超越したような面影を持った字だなあと心底感心したのは良心ぐらいです。

業の抑え方というものが禅とかヨーガの行だと思いますが、その抑え込まれたモヤモヤっとしたような業が、全部はみ出してくる。麻原という人の業の深さは簡単には片づけられないぜって思う。

辺見 僕の周りでは皆そういっているんです。しかし「私はそう思う」と公然と述べることが今の日本ではできない。ファミリーレストランでステーキ食って、カニが好きで、女も好きで、金も好きで……にもかかわらずどうしてこんなに信徒を集められるんだという疑問を抱いたときに、その俗物性の分だけ霊性という魅力もまたあるんだと言えば、何か腑に落ちるじゃないですか。しかしそれが言えない。

吉本 僕はテレビが好きなものですから、テレビを見ていると、テレビの中にはすでに独特の価値観というものがあって、テレビ自体が相当業が深くなっているんじゃないかと思うことがあります。僕はテレビには和解的だったけれど、これはうかうかしてるととんでもないことになるぞと思いますね。

辺見 すでにしてとんでもないことになっていると思います。僕はテレビにあまり和解的ではありません。麻原の番組をたくさんやるでしょう。おそらく世界広しといえども、ひとつの事件にこれだけよってたかっておなじような番組を流す国はないだろうと思いますね。

吉本 ないでしょうね。

辺見 アメリカの場合は、「私たちはバカな番組をやります」と趣旨鮮明にして、バカ番組を見たい人と契約を結ぶシステムがある。キャスターが正義の代弁者としてニュースをやり、それが終わったと思ったら、アチャラカの番組を平気で流す。でも僕はニュースもアチャラカもほとんど同じレベルじゃないかって思う。逆にいえば、テレビ自体が業の深さの集積した総合体なんですね。そこには個人としての生身の教祖がいない。でもテレビというのはれっきとした宗教ですよ。僕はそう思うな。

吉本 そうです。顔のない宗教ですよ。

辺見 だから宗教論とはメディア論でもあるべきだと思う。その逆でもあるということです。メディアは宗教的な何かでもある。神棚も仏壇もなくても、一家に少なくとも一台テレビだけは家族の集合する場所にある。冷戦構造崩壊後に、世界を一元的に支配しているのはテレビぐらいのものでしょう。テレビは人間の業が凝縮されたメディアです。だからこそ大衆密着ということが可能なんでしょう。同様に麻原という人もそういう人だと思う。人の気持がわかるんですよ。業が深い分だけ、人の気持ちが手に取るようにわかる。いくら綺麗事を言ったって、内心はエッチであり、名誉欲もあり、権力欲もある、そういうことが普通の人よりも敏感にわかる人だったんじゃないかなあ。麻原にくらべれば、60年代の新左翼の指導者なんて、よく言えばただ恬淡としていた理念先行の小人物ばかりで、民衆というのが業の集合体であることはわからなかった。

吉本 そうなんですよ。

辺見 昭和天皇のような人物が死ねば何かを引きずるということですか。ベルリンの壁まで崩壊する。これはどっちが引きずったか知らないけど。同じ1989年のことですよね。天安門事件まで起きちゃう。歴史自体に霊性があるのかもしれない。ある種、世界史を感じさせるというかダイナミズムを醸成するような霊性というものは、少なくとも60年代のリーダーたちにはなかったですね。


(つづく)


吉本隆明・辺見庸 「夜と女と毛沢東」

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