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あなたは友人が罪を犯していたと知って、それでも友人でいられますか?

薬丸岳著の「友罪」を読み終え、筆者のこの問いに対する答えを読み深く考えさせられている。自分の思いを、風化してしまう前に書き連ねておこうと思う。

物語のあらすじ(⚠︎ちょっとだけネタバレ含みます)
ジャーナリストの夢を追いかけたが挫折し、しかしなおも希望を捨てきれないでいる主人公「益田」がいっときの住む場所を求めて寮のある会社に就職する。その時同時に入った同期の「鈴木」との間で様々な出来事が起こる。益田は鈴木が15年前に起きた猟奇殺人の犯人ではないかと疑い出す。犯人は当事中二であり、逮捕されて少年院に入り、更生されて社会に出ている。益田は心優しい彼が犯人ではないと信じたいためにさまざまな調査を行うが、結局犯人であるということに行き着いてしまう。それを知ってから彼はどうするべきか、自分の勇気のなさや過去の罪、情報を持たない周りの人間との齟齬に苦しめられ、最終的な答えを導くまでを描いている。

全てを知ってもなお友達でいると、約束できるなら鈴木は全てを話すといった。しかし益田にはそんな約束はできないし勇気もないから曖昧にして長い時間煩悶とすることになる。

最初は自分は、益田の気持ちもわかるがあまりに意気地なしではないかと感じていた。どんなに優しい一面を持ち合わせていたり人のために一生懸命に働く姿を目にしたとしても、彼が猟奇的に殺人を犯したという罪は変わらない。それにあくまでも嫌悪感を抱き、鈴木に同情の余地はないというのが益田の感覚であったが、それは逆も然りではないかと考えた。どんなに猟奇的な殺人を犯していたとしても、それは十数年も前の話であり、彼は常にその罪の意識に苦しめられており、それでも償いたいと、人のために生きたいと願い生活をしている。その優しさや友達思いな側面が否定されるべきではないと感じた。

しかし、では私は益田とは違う選択ができただろうか?周りの人間や、世間の厳しい批判を一身に受けるような殺人犯の肩を持つような行動ができるだろうか?それでもなお、鈴木を友人と慕い、仲良くしていくことができるだろうか?

あなたはもしも親しくなった相手が、かつて重大な犯罪事件を起こしていたと分かったら、どうするか?
正直いうと、私なら少なからず恐怖を覚えると思う。更生していると言われても外側はいくらでも取り繕うことができる。正体に気づいてしまったが故に万に一つ殺されないかと心配になる気持ちも少なからず沸くかもしれない。
しかしそれが全てではない。
過去のその出来事が、その人の全てを物語るわけではないと私は信じる。親しくなった友人の優しいところや、気遣いのできるところなど、世間の知らない親しくなった者だけが知りうる側面をこそ大事にしたい。鈴木もそうだが彼らはずっと苦しんでいるのだ。子供の頃に犯してしまった償い切れない十字架を背負って何年も生きてきた。そこには私が想像も及ばないような壮絶な苦しみがあるはずだ。鈴木のように何度も自殺したくなるのも無理はないと思う。ただそれは逃げでもあるように思う。これは本にもあったが、死んで自らの十字架から解放されるべきではなく、自分が奪った未来を自分が実感することで罪の深さを実感しながら生きていくしかない。

社会の中においては一定数罪を犯す人間がいる。普段はその人たちが罪を犯し逮捕されたところまでしか関心がない。獄中どのようなことを思っているかとか、社会に戻ったときにどんな生活をしているのかとかに思いを馳せることはないだろう。ましてや残虐な殺人犯となると、そのほとんどは終身刑か死刑になっていることだろう。出処することがないのだから、そのような想像をするきっかけがなかなかないだろう。

ところがこの小説を読んで、初めて少年院を出た元殺人犯の立場にたって物事を想像してみる機会を得た。それでも鈴木などは特殊なケースだと思っていたが、あながちそんなに特殊ではないのかもしれない。作中では鈴木に限らず元AV女優だとか、事故で子供を死なせた男の父だとか、それこそ益田のように自身の行為が引き金となって友達が自殺したという人が出てくる(本当に益田の言葉で自殺に踏み切ったかどうかは不明だが)。程度は違えど、みな鈴木のように過去に背負った十字架に苦しめられていたり、社会的に虐げられていたりする。それ自体は全く珍しいことではないはずだと感じさせられた。

人は必ず死ぬ。日本だけで見ても毎年二万人ほど自殺する人がいるし、1000人近くが殺害されている。元AV女優や殺人犯の両親を含めるとその数はさらに膨れ上がってくることだろう。

かく言う筆者も、ここ1ヶ月以内に身近な人が一人自身の人生に終止符を打ってしまった。

私はあの人のことが人間として大好きだったし、もっと喋ったり、いろんなことを教えてもらいたかった。何より感謝の気持ちを伝えたかった。去年の11月ごろからあまり会わなくなり、1月初めに少し話して連絡も取らなくなってしまったが、もっと連絡を取っていれば、もっと喋っていれば、あるいは結末が変わったかもしれないという後悔に苛まれることがある。同年代の身近な人が亡くなったのは私に取って初めてのことである。親しい人だっただけに実感は湧かないし、今でもどこかでせっせとやらなくていい仕事までこなしてるんじゃないかと感じてしまう。

それでも故人は戻らないし、そんな想像に意味はない。現世に残された人間としてできることはどうしようもないことをあれこれ考えることではなく、この現世で何ができるかを考えることなのである。常世に干渉することができない以上、それしかできることはないと思うし、それが故人に対する弔いでもあると私は考える。

今周りにいる人を大事にすることしか、私たちにはできないのである。何かが苦しくてこの世に絶望しているなら、どうにかしてこの世には希望があるのだと思ってもらいたいし、それができるのは生きているうちだけなのだから後悔する前に行動に移さなければならないと感じる。

私と、私の父の持論でもあるのだが、他人を幸せにするにはまず自分が幸せにならなければならないと思う。これは決して独りよがりなものではない。最もコントロールできる自分一人すら幸せにできないものが、他人を幸せになどできるはずがない。よく笑い素敵な笑顔で笑う人の周りに表情の暗い人はそうそういない。逆に辛そうな人を見て、それを笑い楽しむ輩がいたとしてもその人たちは幸せではない。これはこの世の因果だと私は思う。

では幸せにする「他人」とはどこまで含めればいいのだろうか?

それは、自身が影響を与えうるすべての人だ。
私はそう考える。
他人を幸せにするために自分が働きかける具体的な行動は場合によってさまざまであると思うが、自身が影響を与えうるすべての人は必ず自身の影響を受ける。この作中でもそうだった。益田は深く考えずに、鈴木が死んだら悲しむと彼に伝えたが、それが鈴木には大きな影響を与えた。自分が気にしてない些細なことで人は影響を受けることが実際にありえるのだ。

だからと言ってすべての言動に気を配れということを主張したいのではない。それは無理難題だろう。さらに与えたい影響を与えることができるとも限らない。自分の幸せを語って共感してもらい、その人にも幸せな気持ちになってもらおうとしても逆効果なことはある。語られた幸せはあまりに眩しく、自分と比較して不幸だと思ってしまう人もいるのだ。どこまでいっても他人をコントロールすることはできないのだ。だから唯一コントロールできる自分を幸せにすることが最優先なのだ。幸せは、波紋のように広がっていく。他の人にも幸せになってもらいたい、この自分の幸せを共有したい、と言うその潜在意識があれば脳は勝手にそれに反応し実現してくれる。思考は現実化する。これも私の持論である。

では初めの問いに戻ろう。あなたは親しい友人が重い罪を犯した人であっても、友人でいられるだろうか?
私は友人でいるべきだと答える。鈴木などは十分苦しんでいる。遺族のものに比べればマシかもしれないが、影響できる範囲内に遺族がいなければ無意味だ。そして自分が虐げたことによって友人が自殺を図ったり、あるいは罪を重ねたりした場合も悔やまれるのは自分自身である。友人が罪を犯していなかったとしても、苦しんでいるなら話を聞くべきだと思う。いっぺんに全てを聞く必要はないが、何か行動を起こすべきだ。見て見ぬふりこそ最大のいじめである。そうした行為は自身の身にも降りかかってくる。いざという時手を差し伸べない者に差し伸べられる手は本当に限られている。それがこの世の因果というものだと私は考える。


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