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長編小説「一遍」の紹介と執筆状況について

はじめまして。伊藤一六四(いとう・ひろし)と申します。
X(旧Twitter)からこのサイトに来られた方は「からふね」という名前の方が馴染み深いかも知れません。
本職はしがないSEなんですが、下手の横好きで小説も書いております。「伊藤一六四」というのはペンネームみたいなものと思ってください。
掲載場所はカクヨムのこちらです。

ただカクヨムにはこの手の執筆裏話などを書く場所がなさそうなので、今回noteのアカウントを取得しました。
こちらで告知などを書いていければ、と思っています。

さてタイトルにあります通り、私は今、歴史小説「一遍(いっぺん)」というものを書いています。
……「今」とは言うものの、書き始めは20年以上も前なんですけどね。

一遍とは、鎌倉時代に実在した仏教僧で、鎌倉新興仏教の一派である時宗(じしゅう)の開祖です。
時宗という宗派の特徴は、阿弥陀仏への信仰が教説の中心であり、仏の本願力は絶対なので、阿弥陀仏を信じる/信じないに関わらず、念仏さえ唱えれば往生できると説いたことです。
そして一遍がおこなった布教活動の最たる特徴は、何と言っても踊念仏(おどりねんぶつ)です。太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らしながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、文字通り踊ることを指します。

高校の日本史の授業でこの部分を教科書で読んだ当時は、頭の中に「?」が浮かんだものです。「法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗、日蓮は法華宗…で、一遍は時宗? 踊念仏? は?」といった感じで。
その「?」が心の隅に引っかかっていて、いつか一遍についてちゃんと調べてみたいなぁ、とずっと思っていたのです。
社会人になってしばらく経ち、やっと心の余裕が出来た頃、不意に一遍のことを思い出しました。高校の時の疑問がまだ全然解決してないやん。
ふと思い立ち、休みの日に大きな図書館に赴いて「一遍」「時宗」についての書籍を読んでみましたが…難しい専門用語ばかり。文章も読みづらく、内容が全く頭に入って来ない。どうしよう…
そう思っていたある日、一つの文庫本と出会いました。
栗田勇(くりた・いさむ)さんの「一遍上人 -旅の思索者-」です。

栗田さんの想像が多分に入っていると思われるものの、とにかく他の文献と異なり文章が非常に平易で、内容がスッと頭に入って来ました。一遍という人物の生き様を大まかに知ることが出来たのは、正にこの本のお陰でした。
一遍という人を調べるのに苦労したのは、亡くなる直前に自分の著書を全て焼き払ってしまったことも理由の一つでした。だから栗田さんのこの作品は、尚更私の理解の一助となったのです。
勝手に勇気を頂いたような気持ちになった私は、調べられない部分については「一遍さんならこう考えたんじゃないか」と想像することが多くなりました。そして気づいたのです。

「これ、小説にしてもええんちゃう…?」

2004年、私はインターネット上で長編小説「一遍」の連載をはじめました。最初は友人内での公開でしたが、一遍が生まれた愛媛県の方からもメールを頂いて交流が出来たり、思わぬ僥倖も少なからずありました。
とはいえその後、私の本業が多忙になったり心身の調子が悪くなったりで、長らく執筆を中断していたのです。

今年2023年、心身の調子を取り戻しつつあり、また「一遍どうしようかな」と思い出した時、ふと「栗田さんどうされているかな」とWikipediaを開いてみたところ、衝撃が走りました。
今年の5月に老衰のため亡くなられていたのです。93歳でした。

自己満足ですが、今年になって思い立ったのは、もしかしたら雲の上から栗田さんが「いつまで休んでるの。いい加減書きなさいよ」と催促してくださったのかも知れないなぁ…と。

さて現在の状況。

第一章から第四章までは公開済み。現在は第五章を書いていまして、少なくとも今年中には公開します。
そして、全体のプロット作りに長年本当に、本っ当に苦労していたんですが(大事なので2回言いました)、この1か月ほどで全部書いちゃいました。
最終的に全十三章になります。長い。
プロットはほぼ出来上がり全体の話の流れはここから大きく変わらないはずなので、あとは書くだけ。頑張って書きます。

※世にそこそこ溢れる「一遍にまつわる著作物」についても色々言いたいことはあるのですが、それはまあ、おいおいと。


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