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本を書く幸せ #シロクマ文芸部

「本を書くのって結構大変なんですね」
編集者の男がおどけて言った。

「おいおい、今さら何を言っているんだ」
元作家の男が笑う。

「いやあ、先生は毎年四、五作ポンポン書かれていた印象があって。いま自分が書く立場になってみると改めて大変だなぁと。私が書くのはエッセイですけどね」

「君にはポンポン書いているように見えていたかもしれないけど、ポンポンは書いてないんだ、ポンポンは」

「そりゃそうでしょうけどね。憧れましたよ。よく毎年、名作ばかり書けるなと。担当編集としては有り難かったんですけどね、こっちが何もしなくてもいいわけなので」

「そんなことないだろう。いい企画を持ってきてくれたじゃないか。おかげで書きやすかったよ」

「ありがとうございます。でも年に数回ですから。やはり先生の才能ですよ。ところで、やっぱり、もう、お書きにはならないのでしょうか?」

「そうだね、書くモチベーションがなくなったからな」

「……奥様が亡くなられたことが大きいことは理解しています。ですが、先生の新作を待ち望む声が今だに編集部にたくさん届くのです。先生が書かなくなって三年になるというのに。
先生、お願いです。新作を書いていただけないでしょうか?何より私が読みたいのです」

「ありがとう。だが、私の答えは変わらない。というより、書けないんだ。私はずっと妻に読んでもらいたくて小説を書いていた。その妻がいないんだ。書こうという気持ちが持続しない。本を書くのは大変なことなんだよ。分かるだろう?」

「分かります。分かりますけど残念です。先生はまだ書けると思うんですよね。ヨソで書かないでくださいよ」

「書くわけないだろ。書くなら君のところで書くよ」

「それを聞いて安心しました。また来ますね」

「忙しいんだろう?私のところに来る暇があったら他に行った方がいいと思うぞ」

「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。先生と会話する時間は私にとって貴重なんですから」

「そうか。まあ来るなとは言わないよ」

「はい、ではまた」

編集者の男が帰って行った。
元作家の男は妻の遺影に話しかける。

明美。
また新作書いてくれって言われちゃったよ。私だって読みたい。お前の書いた新作があるのなら。

とは言え、私にはお前がこれまで書いてくれた作品で充分だ。お前が何を考えて小説を書いていたのか、想像するだけで時間が満たされる。

だが、お前は私の代わりに小説を書いて幸せだったのか?

こればっかりはお前に聞かないと分からない。お前は急にいなくなってしまったから聞けずじまいだ。私がそっちに行ったら教えてくれよ。

私は……お前の新作を一番に読めて幸せだった。自分で書こうなんて思ったこともない。ただ、お前という大作家を隠蔽している自分が、たまらなく嫌なだけだ。

(1130文字)


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