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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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#胡適

Hu Shih 胡適 1891-1962

胡適 Britannica Kids  中国語の記述writingは、外交官であり学者である胡適により革命が行われた。その(革命の)ときまですべての尊敬される中国語文献literatureは、古代の古典のスタイルで書かれていたが、それはラテン語が英語と違うように、口語のspoken中国語とは異なった言語だった。胡適は、現代的で日々の会話を反映した口語体the vernacularの成立にーそれを中国の公的な書き言葉にすることに、貢献したのである。彼はまた指導的な政治的自由

郭運恆「魯迅,胡適の政治観」2007

郭運恆《魯迅,胡適政治觀之比較》載《魯迅與胡適》綫裝書局2007年pp.131-143 こうした胡適の闘いを、日本人の知識の中に取り戻すことが必要であろう。また一般の中国の人はどの程度、この話を知っているのだろう(写真はヤマアジサイ)。 p.131 魯迅と胡適はかれらの家庭出身、学問を求めた背景、気質性格などの方面がすべて違うが、当時の社会が大変革、不安定さ(大動蕩)、中華民族が生存と発展の極めて困難な時期に直面していたなかで、彼らは良心溢れる知識分子として、政治から離れ

北京大学校長としての胡適 1946-48

解題                           福光 寛    胡適が北京大学校長として北京に入ったのは1946年7月末の事。しかし当時の中国は、通貨膨張から大規模なインフレに見舞われ、学生・教師・職員いずれも、生活苦に陥るものが少なくなかった(写真は水道橋から神田川を御茶ノ水方面をみたもの。右上にJRの架線だ見える。)。全国で反飢餓反内戦を掲げた学生運動が盛り上がりを見せた。学生運動に批判的な胡適であるが、この運動に同情を隠せなかった。もう一つここで注目した

聞一多の暗殺 1946/07/15

 中国の民主化運動の担い手の一人であった聞一多(1916-1946)は国民党の特務機関によって、雲南で暗殺されたとされる。直前の李公樸の暗殺とともに、民主派の人々まで暗殺したとして、蒋介石=国民党への内外の批判が高まった事件である。この事件の結果、国内でも海外でも、国民党の強権的なやり方を批判する意見が一挙につよまり、結果として国民党が中国で政権党になることをこの事件はつぶすきっかけになったとの評価もある。そこで果たして、そうした稚拙な手段を蒋介石が本当にとったのかという疑問

胡適「陳独秀の最後の論文と手紙」序文

解題                           福光 寛  これは、胡適《陳獨秀最後論文和書信序》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年,pp.161-173の翻訳である。この序文には日付けがあり、1949年4月14日夜 太平洋船上とある。中国がこのときどのような状態にあったか、胡適(1891-1962)が太平洋上でどのような旅にあったかも重要である。彼は駐米国連大使として赴任するため、上海からサンフランシスコへの航路にあった。すでに共産党との内戦で国民党の敗

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛 この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。) 馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

反対党容認を求めた胡適 1946/07-48/12

解題                             福光 寛  任育徳《胡適 晚年學思與行止研究》稻鄉出版社·2018年pp.149-155,esp.153-155 このときの胡適は、北京大学校長であるとともに、中華民国の代表的言論人の一人であった(写真は礫川公園より東京都戦没者霊苑を望む)。  国民党は学生運動の「非政治化」に失敗。学生運動を抑え込む政策に転換し学生の反発を買った。他方、共産党が進める統一戦線に加わる学生は少なくなかった。  1947年夏時

于子三事件と胡適 1947/11/03

于子三(1924-1947)は浙江大学学生自治会会主席だった人物。当時、共産党は学生運動に浸透していた。これに対し現地の国民党特務は、学生運動の背後を調べる目的で10月26日朝早く、前日の夜、友人の結婚式に出席していた于子三を拉致した。その後10月29日、留置所内で自殺したとされた(于子三慘案)。背後関係を調べるため、拷問を加えられて殺された可能性は高い。国民党側は、浙江大学のある杭州市を封鎖して、事件の拡大を防ごうとした。他方、共産党側はこの事件を最大限利用して、学生運動を

胡適,蔡元培と五四運動 (周海波2005)

 周海波《胡適 新派傳統的北大教授》中國長安出版社2005年,pp.63-69 以下で周海波は、胡適の学生運動一般に対する見解は、五四運動からちょうど1年後の1920年に蔣夢麟と共著で発表した文章に現われているとしている(写真は湯島聖堂)。果たしてそうかどうか。示されている学生運動に対する批判は、憂国の学生の心情は議論せずに、学生は学窓にとどまらねば授業を受ける権利を放棄することで損をしているだけだと説く。胡適の議論はかなり薄情にみえるがこの周海波の理解でいいのかどうか。他方

陳独秀 民主主義の正しい評価 1940/07

《陳獨秀 給連根的信(1940年7月31日》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.181-183 陳独秀という人の最晩年、民主主義がまず重要であることを主張して、当時のスターリン、ヒットラー、ムッソリーニの独裁体制を批判。また民主主義のない社会主義には、何の意味もないと喝破。レーニン=スターリンが掲げた無産階級民主主義は、党の独裁にほかならない点で、民主主義の内容がなく、空虚だと徹底的に批判している。こうした陳独秀の議論は、近年、陳独秀の議論が再検討される中

陶希聖「陳独秀について」1964

(解題 以下は陶希聖《記獨秀》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.123-138 の翻訳である。陶希聖は内容からみて、陳独秀のおそらくもっとも身近にいた友人の一人といえる。幹部派、反対派、トロッキー派などさまざまな左派グループの関係や考え方、その中での陳独秀(1879-1942)の位置、などを考える上で参考になる資料である。陶希聖(1899-1988) は中国の近代政治史で大きな役割を果たした人物の一人。経歴をみると、様々な要人との交流も多く、蒋介石(1887