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大西広『西側民主主義』を拒否する中国 を読む

 大西広さんは京都大学から慶應義塾大学に移った研究者で、中国の政治制度に詳しい。すでに慶應も退職されて慶應大学名誉教授。取り上げる論文は『季刊経済理論』第59巻第4号、2023年1月、33-44に掲載されたもの。
   中国が欧米型民主主義を取り入れないことを私は正しくないと考えるのだが大西さんは、この論文で、そうした中国の立場を肯定するロジックを書かれている。また中国の政治制度を弁護されて、それは多数決民主主義よりは良いものだとされる。今回、丁寧に読む時間があったので、大西論文から読み取ったことと疑問に感じた点とを記録しておきたい。
 まず最初に、毛沢東時代の大衆の直接行動による「直接民主」、あるいは「大鳴、大放、大弁論」という「大民主」は、大衆が思ったことを率直かつ直接に意見表明するもので、指導者は人民の中に入り人民の声を聴くべきだという要求自体は、正当だとしている。ーー私はこの考え方には違和感がある。たとえば、大衆が人民裁判を開いて「地主階級」とされた人々を殺害した土地改革が中国では起きた。そもそも土地改革が本当に必要だったのかということもあるが、司法制度を無視して、人が人を断罪したり裁くのは異常だ。土地改革への批判は、今でも中国でタブーだといっていいだろうが、あの悲劇は直接民主を認める中で生じた。同様の悲劇が文化大革命でも起きた。意見を表明することまでは良いとしても、「直接民主」を認めないのが、むしろ近代社会なのではないか。
 続けて、鄧小平がこの大民主を否定した、中国における自由な意見表明の禁止は、鄧小平の決定により始まったと、大西さんは続ける。ーーここは確かに大西さんの主張は、正しい。鄧小平による改革開放の時代が、言論自由化の時代でなかったのはその通りである。ただ他方で大西さんは、大民主の考え方は、末端行政区、末端諸組織における「協商民主」に引き継がれているという。また中国政治制度の多段階性を中国の規模からやむを得ないとされる一方、選挙での候補は政府が推薦されるという選挙方式は「独裁」に違いないとされる。
 そのうえで大西さんは、民主主義の問題として「社会分裂」が進み社会的混乱が起きることと、民主主義は結局は多数決民主主義であって少数者排除が生じることとを上げている。これに対して中国は独裁であるにしても、「政治協商会議」では「議論を尽くす」全員一致制をとることで、少数者の利益も守られている、とするのである。ーーこれにはそれぞれ反論が可能である。第一の点については、民主主義国で必ず社会的混乱が起きるわけではない。であるとすれば、民主主義と社会的混乱とを同一視すべきではない。また大衆的デモが起きることがあっても、それは意見の表明とみるべきで、社会的混乱とみるべきではない。第二の点については、民主主義に基づいた議会の審議においても、与野党が「議論を尽くす」ことで、少数意見を吸い上げることは、理屈として可能である。大事なのは、「議論を尽くす」ことで少数意見をくみ上げる精神なのではないか。「議論を尽くす」ことが独裁のもとでだけ可能だというのは、論理に飛躍があるのではないか。


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