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孫冶方 劉少奇提倡民主 1980

 以下は孫冶方《重視理論 提倡民主 尊重科學-回憶少奇同志的幾次講話》載《經濟研究》1980年第4期の第二段落の翻訳である。《孫冶方經濟文選》中國時代經濟出版社2010年249-258,esp.253-255から採録した。この記述の前半、資本主義の未発展と民主の伝統の欠乏との関係の指摘は鋭いし興味深い。だが後半、小資産家が右に左に揺れ動くとするのは、記述として疑問が多い。小資産家かどうかは無関係で、民主の伝統が欠如している社会では、すべての人々が保身のため、右に左にゆれるのではないか。(写真は占春園)
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 少奇同志は華中党校での講義で、とくに民主を提唱した。彼は言った、中国社会は3000年来すべて中央集権制の封建専制制度に属してきた。封建制が最も完全で(最完善)最も発達した国家である。封建主義の思想意識は根深くつながっていて(根深蒂固)、家長制が広がっている(盛行)。我々は資本主義社会段階を経ていないので、民主の伝統に欠けている。彼は講義の中で繰り返し全員に、党内外で民主的態度(民主作風)を育て(培養)ねばならないと指摘(提醒)した。
    少奇同志のこの観点は非常に正確だった。ますます多くの事実が示しているように、我々の国家はまさにマルクスが『資本論』第一版序言で述べているところにそっくりであって、「資本主義の未発達に苦悩しており」「我々のさらに多くの受け継いだ災難に圧力が加えられている(壓迫着),これらの災難が生まれたのは、昔から変わらない(與古老的陳舊的)生産方式、それらが時を過ごした社会関係と政治関係がなお生き残っている(苟延殘喘)ことによる。」資本主義生産が未発展であることにより、我々の旧社会が残した災難が増している(壓迫着)、社会主義の物質的基礎が欠乏しているほか、とくに重要なのは、まさに民主の伝統の欠乏である。家長制的指導、人々の意見を聞かず(一言堂)、情況もわからず指揮をする(瞎指揮)、命令を強制する、人民大衆の頭に立って威張る(稱王稱霸)、大衆の監督を受けない、など。(これが 訳者補語)正しくないのは民主伝統の欠乏を表しているからではないか?これらのことがらは、我が国の革命と建設にとり、多くの危害をもたらしてきた。これを見るに、資本主義生産が未発展であるのは、ある同志が言う所とは違って、我々の革命と建設を容易にするのではなく、その反対に、我々の革命と建設をさらに困難にするものではないか。まさにレーニンが次のように言うとおりである。「歴史の進展の曲折は遅れた国家で社会主義革命を開始せざるを得なくしたが、それは古い資本主義関係から社会主義関係へ移ることを正により困難にしたのである。」(レーニン ロシア共産党第七次代表大会 レーニン全集 第27巻 北京 人民出版社 1958年 p.77)
   少奇同志は、日本は明治維新後の19世紀の後半、資本主義を発展させたととくに話したことがある。しかるに我が国は19世紀末の戊戌変法の失敗後、資産階級民主は発展しなかった。少奇同志がみるところ、戊戌変法(1898年6-9月光緒帝と改革派官僚により進められた改革を指す。西太后ら保守派のクーデターにより短命に終わる。訳注)は阿片戦争(1839-42年 訳注)以後の最初の進歩的意義のある運動であることは否定できない。少奇同志の戊戌変法に対する評価は、毛沢東同志の意見と一致している(相吻合的)。毛沢東同志は『中国革命と中国共産党』の中でつぎのように述べている。「帝国主義と中国封建主義が結合し、中国を半植民地そして植民地に変えようとする過程、それはまさに中国人民が帝国主義とその走狗に反抗する過程であった。阿片戦争から始まり、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌政変、義和団運動、辛亥革命、五四運動、五卅(五三十)運動、北伐戦争、土地革命戦争、そして現在の抗日戦争至る。すべて中国人民の帝国主義およびその走狗に(対し 訳者補語)、屈服することなく頑強に反抗する精神の表現である」見られるように毛沢東は、戊戌の変法を”中国人民の帝国主義およびその走狗に、屈服することなく頑強に反抗する精神の表現”と考えている。
 少奇同志は当時指摘している。中国共産党が指導する新民主主義革命闘争は、資産階級民主革命の継続であり、封建専制独裁に反対せねばならないことを含んでいるとして、民主を提唱している。新中国成立初期、少奇同志は再度指摘している、我々の基本的スローガンは民主化と工業化であると。これはとても正確だった。林彪と四人組(四人幫)は封建的社会主義をもって科学的社会主義に代え、組(幫)をもって党に代え、封建ファシズム専制を徹底して行い、彼らの行動が粗暴で道理にあわなかったとき(橫行時)、多くの地方封建勢力は狂暴を極めた(猖獗)、これらはすべて我が国の長期と同じことである。すなわち封建社会と小農経済、まるで広大な大海と同じように分かれることがない。林彪と「四人組」の10年の破壊以後、我々はさらに深く体感できた、少奇同志があの年に民主を提唱したのは、当時切迫していたというだけでなく、なおかつ今日その現実意義があると。社会主義のもっとも根本的特徴は人民大衆を主人とすることにある。民主を発揚することなく、(また)人々を主人とするのでなければ、社会主義は空念仏(一句空話   絵空事)になり、四つの現代化も実現しがたい。
 少奇同志は華中党校での講義のなかで、さらに科学尊重すべきことを提起された。すべての事物に対して科学的態度をとるべきであり、主観主義を振り回してはならない。マルクス主義の本質は一つの科学である。マルクス主義理論研究を重視することは、また科学的表現を尊重することである。彼はどのようなことを行うときにも科学は尊重すべきことを提起し、すべて実事求是でなければならず、主観は客観実際と符合しなければならず、事物発展の客観規律が尊重され、我々の誤りを少なくして、革命事業の発展を促すべき(利於)とした。少奇同志と交流するなかで(接触中)、私は彼がマルクス主義の主要内容である政治経済学に特別の関心を寄せていることに気づいた。事実として、新中国成立以来、我々の社会主義建設上、何度も重大な挫折にあったが、いずれも科学尊重が不十分だったことが関係している。もし我々全員が理論を深く検討し(深入銓研),どこでも科学を尊重するなら、我々は多く完全に失敗を避けることができる。まさにそれゆえに少奇同志は3年(にわたる)経済困難時期に、一度ならず政治経済学研究(そして)、経済規律に沿って進める重要性を強調した。1961年最初の地方指導同志との会談の中で彼は鋭く指摘している。「政治経済学が分からないものは崩壊するのみだ(要垮臺的)!この話は,当時我々が当面の(暫時)困難を克服し、国民経済の回復と発展の闘争に勝利するうえで、多くの要点をついている(説得多麽中肯),また多くの重大な指導意義をもっている。
 少奇同志は華中党校での講義で、かつて次のように述べている。中国のこのように小資産階級が多くいる国家の中では、革命闘争では容易に”左”の誤りが現れる。中国革命の歴史からみるに、”右”傾は容易に克服されるが、”左”傾は克服がむつかしい。第一次国内革命戦争の時、北伐軍に従って湖南に侵入した、陳独秀右傾機会主義路線が表面化したが、この右傾路線克服まで、時間は長くかからなかった。しかし「反右傾」以後、出現した瞿秋白同志の盲動主義が出現し、続いて李立三同志の”左”傾路線、そして王明の”左”傾機会主義路線が全党を4年の長さにわたって統治することになり、遵義会議に至ってようやく克服された。少奇同志の上述の1941年の講話は、また新中国成立後30年の問題にまさに当てはまる。新中国成立以後数回の”反右”はあるものは(有些)正確で必要だった。しかしあるものは完全に誤っており、甚だしくは林彪、”四人組”の極”左”路線の口実になった。”四人組”が捕まってのち、現在まで極”左”的なものが、なお一定の影響力をもっている。これはわれわれが深く考えるべきことである。我々は今後なおすでに反”左、または反右に注意しなければならない。なお両路線戦線上で争わねばならない。しかし”左”機械主義路線には警戒を怠らない(保持警惕)ようにすべきである。これは林彪と”四人組”が思想上組織上の影響力が粛清されるにますます遠いというだけではなく、少奇同志が指摘したあの”左”傾機会主義の社会歴史の根源がなお失われていないからである。小生産者(ママ 小資産家の誤植か。訳注)は”左”右に揺れ動くものである。彼らは国内外資産階級の影響のもと、右に揺れる。しかし革命勢力が高まり、その政権掌握後は、簡単に頭が熱くなって今度は左に揺れる。この種の左傾機会主義は革命の外着をまとっており、それゆえに簡単には見破れない。はなはだ迷惑な存在である。過去の教訓は深刻であった。良くなった傷跡の痛みを忘れてはならない。以前の痛みを思い出す必要があり、(そうすれば)病根を深く掘りだし、あの痛み(慘禍)を二度と繰り返さないようにできる。

中国経済思想摘記目次

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