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映画「百円の恋」と松田優作さん

長文ですが、書き留めたい想いで、映画「百円の恋」と松田優作さん、周南映画祭との関わりについて、書かせていただきました

写真 ©2014東映ビデオ

「規模じゃない、人間なんだ」


以下は、映画「百円の恋」公開直前の2014年10月25日にテアトル新宿で開かれた、松田優作さん特集上映・スペシャルトークでの、俳優・写真家、松田美由紀さん(松田優作さんの奥様)のお言葉です。

「松田 『百円の恋』は山口の小さな小さな映画祭、商店街の片隅で行われるような周南映画祭のスタッフの方が情熱のある人で、どうしても映画祭で優作の脚本賞として募集したいんだっていう熱意を持って。セントラルアーツの黒澤満さんっていう優作を昔から知ってるプロデューサーが「規模じゃないんだ、人間なんだ」って言って、周南の熱意のあるスタッフに賭けようじゃないかって言って。規模じゃなくてその人に賭けたみたいなところあるんですね。それでこの熱意をどうにか形にしてあげたいっていう思いがあって、それで映画祭が行われて。そしたら151本の脚本が集まったんですね。本当にどこから情報得ているんだろうかっていう数が来て、その中から10本の作品を読ませてもらうことになったんですけど、それまではスタッフが151本全部読むっていう大変な作業だったんですね。その中から『百円の恋』が面白いってことになって」

映画「百円の恋」ホームページ スペシャルコンテンツより

美由紀さんが仰った「周南映画祭のスタッフの熱意のある人」は勿体なくも僕のことなのですが、今この記事を読むと、ここで言われた「熱意」を、今の僕は持ち続けているのか?正直、それを自分に問いたいです。

そして、優作さんの「育ての父」だった名プロデューサーで、遊戯シリーズをはじめ「探偵物語」「蘇える金狼」「野獣死すべし」など、優作さん主演のドラマ・映画を世に送り出した黒澤満さんが仰ってくださった「規模じゃないんだ、人間なんだ」というお言葉を想うと、心の奥が熱くなります。

周南映画祭と松田優作さんへの想い


周南映画祭は、山口県周南市(2003年に徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町が合併して誕生)において、映画でまちを盛り上げよう、と2009年に映画好きな人たちが集まって開催し、現在も「周南『絆』映画祭」の名称で続いています。お陰様で多くの皆様方のご支援を得て、目標であった10回を越え、2023年3月には第12回を開催することができました。

僕は、当初は企画担当と副実行委員長を、現在は実行委員長をさせてもらっています。映画祭が始まった当初、様々な企画案があがる中で、僕としては「松田優作特集」をやりたい、という想いがありました。

僕は、小・中学校時代、勉強もスポーツも壊滅的に苦手で、周囲ともなかなか馴染めない「いじめられっ子」でした。友だちや先生にも馬鹿にされ、日々劣等感と自分の情けなさが嫌になる日々が続いていました。

大人になってからは「発達障害」とも診断されるのですが、そんな少年期のヒーローは小学2年生の時にテレビドラマ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事として出会った松田優作さんで、以来、ずっと優作さんに憧れ、出演ドラマや映画を観てきました。

そんな僕の、自分の中の劣等感がスパークした瞬間が、高校1年生の時に親友の田中君と山口市の映画館「金竜館」で一緒に観た映画「野獣死すべし」(1980年/黒澤満製作、村川透監督、丸山昇一脚本)を観た時です。

優作さん演じるベトナム戦争の従軍カメラマンだった伊達邦彦が、平穏な現代日本の生活に耐えられず、ショパンのピアノ協奏曲に背中を押されるように「狂気」を纏って「野獣」となり、疾走していく姿に僕は興奮しました。

映画を観ている間、いつも弱い心に支配されている自分の中に「野獣」が覚醒していくような、背中と胸の中がカーっと燃えるような、不思議な感覚を劇場で味わいました。

観終わったあと、見慣れているはずの田舎の田んぼや町並みが、いつもと違った乾いた異空間のように見え、自転車で帰宅する途中、何か叫び出したくなる衝動に駆られた感覚を、今でもはっきりと覚えています。

それからは暴力を受けたり馬鹿にされても自分なりに跳ね返せるようになり、自分の好きなこと、こだわりを貫こう、と思えるようになれました。

正直、その後もなかなかのしんどい人生を送るのですが、それでも少しずつ「夢」に近づき、今は貧しくとも好きな「映画」と向き合いながら、家族と幸せに暮らせているので、そういう意味では優作さんと「野獣死すべし」との出会いは、僕の人生を変えた、と言っていいでしょう。

そんな想いから、映画祭では「松田優作特集」をどうしてもやりたくて、第1回映画祭では遊戯シリーズ第1作「最も危険な遊戯」(1978年、黒澤満製作、村川透監督)を上映することになりました。この作品は黒澤さんが設立した映画製作会社、セントラル・アーツの記念すべき第1回作品でもあり、僕にとっても大好きで思い出深い作品です。

僕としては、せっかくの映画祭ですし、ただ作品を上映するだけでなく、優作さんゆかりの方にゲストとして御来場いただき、トークをしてもらいたい、という気持ちがありましたが、僕はただのファンですし、そんなツテがあるわけもなく、どうすればいいか分かりませんでした。

そんな中、奇跡が起きました。

映画祭の女性スタッフ、Mさんが、テレビで放映されたドキュメンタリー「松田優作は生きている!」をたまたま視聴し、その番組に出演していた、優作さんを少年時代から“カメラ小僧”として追っかけているうちに優作さんから可愛がられるようになり、やがてプライベートを含めて、優作さんの音楽活動(ライブ活動)を撮影するようになったプロカメラマン、渡邉俊夫さんの言葉に衝撃と感動を受けたのです。

その言葉は、優作さんが渡邉さんに言われたという「大切なのは縁とタイミング」「全ての出会いは偶然ではなく必然」というものでした。ちょうどMさんは、のちに結婚されるお相手と出会った頃で、映画祭の仲間たちとの「出会い」を含めて「縁」の大切さを感じていた時期でもあったようです。

それで、渡邉さんのブログにMさんがその感動をコメントしたところ、渡邊さんから真心がこもった返信コメントがあり、それを読んだ僕は「この方に是非来てもらいたい!」と直感で思い立ちました。

すると、すぐに渡邉さんに連絡がつき、第1回映画祭のゲストに来ていただくことができました。渡邉さんが紹介されたテレビドキュメンタリー「松田優作は生きている!」も番組を制作したディレクターさんのご好意で上映することができました。

脚本賞「松田優作賞」設立の経緯


この時、不思議だったのは、あれよあれよという間に渡邉さんの携帯番号をゲットできたことです。それで思い切って電話をしたら、渡邉さんはその彼女のブログに貼ってあったリンクから僕の映画ブログも読んでくださっていて「この人たちとつながる気がしていました」ということでした。

電話で「山口県で映画祭をやろうと思っている…」と切り出したら「もしかして、大橋さんですか?」と聞かれた時は本当に驚きました。これも優作さんが言われる「縁とタイミング」「必然」だったのでしょう。

それから回を重ねて4回目の映画祭を企画していた時、優作さんを顕彰する企画として持ち上がったのが「松田優作賞」です。俳優さんの名前を冠した賞は俳優さんに贈るものが多いのですが、どうしても「脚本賞」としての「松田優作賞」にこだわりたい、という強い想いがありました。

その理由は、優作さんは、いち俳優として作品に参加するだけでなく、映画の心肝である「脚本」にこだわり抜き、脚本づくりに自分の心血を注いだ方だった、というところにあります。

映画「処刑遊戯」「野獣死すべし」やドラマ「探偵物語」などでコンビを組み、優作さんが最も信頼していた脚本家・丸山昇一さんは、そんな優作さんの脚本づくりの唯一のパートナーでした。

映画になる保証も全くない中で、優作さんは常にシナリオのことを考え、例えばマンガや小説などを読んだりして様々な発見やインスピレーションを感じると、それが早朝だろうが夜中であろうが関係なく即座に丸山さんに電話をかけて伝え、それを元に丸山さんがひたすらに書く、という形で多くのシナリオを作られています。

……と簡単に書いていますが、優作さんと丸山さんのこの関係性は、どれほど濃密で、丸山さんから見れば大変だっただろう、と思います。当時は携帯電話も無かった時代ですから……。

その中には実現していないものも多くあり(と言うか、実現してない脚本が圧倒的に多い)、そのいくつかは「松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集」(幻冬舎刊)として書籍化もされています。

中には、「犬、走る」(1998年、崔洋一監督・脚本、岸谷五朗主演)「カメレオン」(2008年、阪本順二監督、藤原竜也主演)のように、優作さんが亡くなられたのちに形になった企画・シナリオもあります。

だからこそ、俳優賞ではない、脚本賞としての「松田優作賞」なのですが、これは渡邉さんとのおつきあいをきっかけに、渡邉さんからご紹介をいただいた優作さんゆかりの方々との交流の中で出てきた話です。

そして、僕としては不安もありましたが「まずは黒澤さんに相談しよう!」と思い切ってセントラル・アーツに電話をしました。最初に電話した時、当たり前ですが、電話口に出られた方は「どなた?」と警戒していました。

一生懸命経過を説明すると、その方は電話も切らずに聞いてくださり、黒澤さんに繋いでくださいました。今思うと、こんな突然の訳の分からない電話に対して、よく繋いでくださったと思います。

黒澤さんは、突然突飛なことを電話で伝えてきた面識もない僕に優しく対応してくださり、僕が渡邉俊夫さんとの関わりやこれまでの映画祭での取り組み、脚本賞「松田優作賞」をやりたいんだ、ということを一気に喋ると、一言「いいんじゃないかな。一度東京に来ることがあったらいらっしゃい」と優しい口調で仰ってくださいました。

そのあと、すぐに映画祭にゲストに来ていただいた縁で存じていた松田美由紀さんの事務所にメールをし、同じくゲストに来ていただいたことから存じ上げていた丸山さんの携帯番号にも電話をかけて「こういう企画をしたいんだ」ということをご説明しました。

それから間もなくして企画書を作成して上京し、初めて東映ビデオ内にあるセントラル・アーツの事務所を訪ねました。

そこには優作さんの陰膳があり、優作さんの気配が感じられて、不思議な温かさに満ちていました。

黒澤さんは優しく迎えてくださり、何と!その席に丸山昇一さんも呼んでくださっていました。そして、その足で美由紀さんの事務所も訪ね、直接、美由紀さんにもご相談をさせていただきました。

この時、ドラマや映画で優作さんの作品に必ず製作でクレジットされている「黒澤満」さんにお会いできたことはもちろん、僕の人生を変えた「野獣死すべし」の脚本を書かれた丸山さん、優作さんのパートナーであり、出演作品も拝見していた美由紀さんに直接お会いしてお話させていただいたことは緊張でしたが、本当に感激と感動の瞬間でした。

ただ、松田優作賞が実現するかどうかについては、皆さんお話は熱心に聞いてくださいましたが、この時点ではまだどうなるかはわかりませんでした。

ですが、少し経って、優作さんの許諾権利を持つ美由紀さんから事務所を通して正式に認可の連絡がありました。

その影には「規模じゃない、人間なんだ」という、黒澤さんと美由紀さんのやり取りがあった訳です。のちのちの選考の過程で美由紀さんからこのやり取りを直接伺ったときは心の底から感激し、感動し、心から感謝しました。

こうした経緯で2012年のはじめに脚本賞「松田優作賞」は周南「絆」映画祭内に設立されました。

選考委員には美由紀さん、黒澤さん、丸山さんにお願いをしてご了承をいただき、僕は運営事務局と責任者を務めさせていただき、おこがましかったですが、審査の末端も担わせていただきました。

この当時、イベント関係のある方に「松田美由紀さんは、松田優作さんに関するイベントや企画について、資金が十分であってもなかなか認可してくれないんだよ」と伺い、驚いた僕は直接「僕らにはお金も力も無いのになぜ許可してくださったのですか?」と聞いたら、美由紀さんは「あなたたちには優作への愛があるじゃない。お金より、愛がいちばんなのよ」と仰っていただいたときは嬉しかったです。

そして黒澤さんは、残念ながら2018年にご逝去されました。

体調のこともあり実現はしませんでしたが「いつか周南映画祭に行きたい」と仰ってくださっておられました。

中国地方で豪雨災害などが起きると、いつも僕の携帯に電話をくださり「君やご家族は大丈夫?」と常に気にかけてくださっていました。本当にありがたかったです。だからこそ「規模じゃない、人間なんだ」の言葉を思い出すと、涙が出ます。

松田優作賞1
第2回松田優作賞最終選考会にて、左から丸山昇一さん、松田美由紀さん、黒澤満さん=渡邉俊夫さん撮影

脚本の束の中で光って見えた「百円の恋」


そして脚本賞「松田優作賞」の募集をしたところ、日本だけじゃなく、アメリカなど海外も含めて世界中から151本もの応募がありました。

僕の事務所を埋め尽くしたシナリオの束の山を見た時は「何て無謀なことを企画したのだろう」と思いました。

この時、無知だった僕は50本ぐらいは選考委員の方々が読んでくれるだろう、ぐらいの甘い考えでいたのですが、丸山さんから「僕らが読めるのはせいぜい5本だよ」と伺い、焦りまくりました。

予想以上のシナリオが集まったことから、仕事をこなしながら、毎日毎日シナリオを読む日々が続きました。最終選考の前になっても追いつきません。ですが、応募者の皆さんの努力を思うといい加減に読めませんので、ただひたすら読んでました。

そんな11月はじめの最終選考を直前にした10月も終わろうかというある日のことでした。

疲弊して1日のノルマにしていた10本にも届かず、8本ぐらいを読み終えたらもう朝の4時で「もう限界。寝よう」と思ってふと目の前の未読の脚本の山を見たら、真ん中のシナリオが光っているような感じを受けました。

それで妙に気になってそのシナリオを引っ張り出すと、表紙に黒の太い丸ゴシック体で「百円の恋」と書かれてありました。

それで何となくタイトルに惹かれ「寝る前に少しだけでも」と読み始めたら、これがメチャクチャ面白くて眠気も飛んでしまい、内容に惹かれて一気に最後まで読んでしまいました。

そのあとは比較的スムーズに読む作業が進み、7本を二次選考に選びました。あとの6本は、不思議と全部「百円の恋」以降に読んだ作品から選んだと記憶しています。

そのあとは実行委員総出で7本のシナリオを最終選考会用にコピーする製本作業をしました。

僕は事務作業が大の苦手ですが、映画祭の準備だけでも大変なのに、実行委員の皆さんはこの企画に賛同してくれ、懸命に作業をしてくれました。

この企画は賞金や僕が東京に行く交通費、コピー代など、結構お金もかかりましたが、実行委員全員がボランティアで大きな資金提供もなく、チケットの売り上げと協賛金中心で運営している映画祭にも関わらず、仲間の皆さんの協力と頑張りでクリアすることができました。もう感謝しかありません。

ですが、授賞式での入賞者の皆さんの交通費はもう予算も底をついてしまい、供出する余裕もなく、本当にどうしようかと頭を悩ませていましたが、黒澤さんが「ウチが出すよ」の一言でセントラル・アーツがご負担してくださり、この時も感謝しかありませんでした。

そして東京での二次選考が始まりました。シナリオ7本はどれも個性的で、面白い作品ばかりでしたが、束の中だけでなく、僕の中で「光っていた」のは、間違いなく「百円の恋」でした。

束の中でシナリオが光った、なんて竹取物語みたいなことあるわけないだろ!とよく言われますが、僕の感覚では間違いなく光ったのです。

通常のシナリオ賞では、いわゆる「ふるい」にかけるために最初に応募脚本を読む「下読み」と呼ばれる作業は、複数のプロデューサーや脚本家の方たちが当たるものなのですが、僕はそんな知識も無く、そんなには集まらないだろうし、もしたくさん来たら、誰かに頼めばいいだろう、ぐらいの軽い気持ちでいました。

そんな無防備な状態で、レジェンドの皆様方に「やりたい」と無謀なお願いをした僕は何てバカだったのだろう、と思います。

そんな僕に、黒澤さんは「賭けてみよう」と仰っていただいた……そして美由紀さんが許諾をしてくれた……丸山さんも選考を引き受けてくださった……今考えると、ゾッとします。

なので、僕はいささか遅すぎましたが、151本の応募があってから初めてその現実に気づき、美由紀さん、黒澤さん、丸山さん、そして応募された方々の想いや期待を裏切っちゃいけない、と、多分今は絶対出来ないと思いますが、1カ月間ほぼ寝ないで、映画ファンとしての自分の直感を信じながら、ひたすら151本のシナリオと向き合うことができたのだと思います。

松田優作賞ポスター
第1回「松田優作賞」募集ポスター/渡邉俊夫さんが撮影された写真を、特別に許諾をいただいて作成しまた。

「念」によって選ばれた「百円の恋」


「松田 (最終選考したのは松田美由紀さん、黒澤満さん)あと丸山昇一さん。だから人の思いとか熱意っていうのは人を動かすしそういうことが希薄になってきてるんじゃないかって思うんですよね、今の世の中。熱い感情っていうのを表に出すのを恥ずかしがったり格好悪いって思われたり、そういうことで自分の思いを伝えるっていうことが、ね。だけど私はその上で普遍的で一番大事なものなんじゃないかなって思うんですね。それで『百円の恋』っていうのも念みたいなもの」

映画「百円の恋」ホームページ スペシャルコンテンツより

さて、脚本「百円の恋」は僕が一次選考で151本の中から最終7本のうちに選んだことは事実ですし、「光って見えた」(笑)ことも本当ですが、僕が「最初に見つけた」と言われるのはちょっと違うし恥ずかしいかな、と思っていて、それは僕に読む力、選ぶ力があったと言うより、美由紀さんが言われた、このシナリオに込められた人の想いや「念」みたいなものによって「選ばされた」のだと思っています。

確かに「松田優作賞」を脚本賞として設立したい、という僕らの熱意が賞実現の要因だったかもですが、ではなぜ「百円の恋」という脚本が「松田優作賞」に選ばれたのか、という点においては、作者である足立紳さんのこの作品に込めた「念」が、松田優作さんが「映画」に刻み込んだ「念」に通じるものがあって、ある種、優作さんが呼び寄せたのでは、と思っています。

だから、一次審査の担当が誰であろうと、この脚本は他の脚本賞に選ばれなくても「松田優作賞」においては選ばれる「縁とタイミング」「必然」だったのだろう、と思います。

だからこそわざわざシナリオの方から「見つけてくれ!」と「光って」くれたのではないか、と思うのです。

そして、この脚本が偶然(いや、必然ですね)にも「松田優作」さんの影響があって完成したことを、「百円の恋」のメガホンを取っただけでなく、シナリオの成立にも深く関わった武正晴監督がこのスペシャルトークの中で詳しくお話されています。

「武 やっぱり優作さんのこと、読んだり聞いたりするととにかくシナリオにこだわった方で、シナリオ作りから丸山さんと一緒になって脚本からプロデューサーのように本を作らせて、それを俺が演じるんだっていう話を色々な方から聞いて。僕らもシナリオライターの足立君と喫茶店で二人でとにかくシナリオ作ろうと。企画書やプロットとかっていうことよりも、自分たちが観たいシナリオ一回作ってみようと。ただ女が闘う映画を作ってみたいんだっていうところから始まったんですけど。そこから4年かけてシナリオ作って、僕らは非常に満足のいくシナリオができたんですけど、なかなか世の中にどう持って行ったらいいかわからない。それであの時に松田優作賞っていう脚本賞、しかも第一回目で。この賞は相当何か熱意のある人達が集まっているのではないだろうかと思って、ある意味賭けでシナリオを出したらある日「三本のうちに残った」と。何とそこで審査員の方が美由紀さんであり丸山昇一さんであり黒澤満さんだってことが分かって、これは僕らにも近い人じゃないかっていう。そこから賞を頂いた時にやっぱりシナリオは映像化されないと何の意味もないので、何とか世に出したい。二人で始めたものが段々人が増えていき、そして安藤サクラさんや新井君がシナリオ読んでくれて。これはまた嬉しいことにシナリオ読んで、やるって言ってくれたので本当にありがたいなって思ってます」

映画「百円の恋」ホームページ スペシャルコンテンツより

つまり、この「百円の恋」というシナリオは、優作さんと丸山さんによる脚本づくりの方法から刺激を受けた武監督が、足立紳さんという気心が知れた脚本家と、製作される保証も何も無い中で練り上げたものだったのです。

優作さん・丸山さんコンビに刺激を受け、全く同じ方法で編み出されたシナリオが「松田優作賞」に選ばれた、という事実は、正に「偶然ではなく必然」としか考えようがありません。

ですから、シナリオの完成から松田優作賞受賞作として世に出るまで5年近くかかったということですが、執筆からどんなに年月が経ったとしても「百円の恋」という脚本は「松田優作」という名の元で世に出る「必然」だったのだ、としか僕には思えないのです。

それで思い出すのは、最終選考時のエピソードです。二次選考で選んだ7本からさらに3本に絞られた脚本のうち、最終選考でどれを「松田優作賞」に選ぶか、となった時、1日かけても結論が出ず、最終的に黒澤さん、美由紀さんから「優作さんがどんな物語を求めていたか、を知っているのは丸山さん」という理由で、最終的な決定は丸山さんに一任されました。

それでこの日は解散し、後日、改めて選考会を開くこととなりました。当時、僕はこのため何度も山口から上京していました。正直大変ではありましたが、本当に楽しくワクワクする日々でした。そして迎えた最終選考の時に丸山さんが仰ったことが今でも耳から離れません。

「今朝、一番風呂に入って、脚本3冊を並べて『丸山昇一ではなく、松田優作ならどれを選ぶか』と思って、もう一度一冊ずつ丁寧に読んだのね。そしたら、もうこれしかないでしょ、て思ったのがこれ」と指を差されたのが、真ん中に置かれた「百円の恋」でした。

その歴史的瞬間に立ち会えたことを今でも光栄に思います。

映画祭松田優作賞_0147
松田優作賞受賞式後に。前列左から丸山昇一さん、松田優作賞受賞の足立紳さん、松田美由紀さん、後列左から松田優作賞優秀賞の斎藤孝さん、げこげこ大王二十八世さん
映画祭松田優作賞受賞式_1676
第回松田優作賞授賞式の模様

安藤サクラさん主演で映画化!


以前、足立さんが「武さんが面白いと言ってくれたあと、あちこちの映画会社で映画関係者やプロデューサーにこのシナリオを見せたが、大橋さんが『松田優作賞』の一次選考で面白いと言ってくれるまで、誰も面白がってくれなかった。受賞後はいろいろな人が面白い、と言ってくれたが、シナリオの中身は一文一句変わっていないのに不思議」と仰ってくださいました。

とてもありがたい言葉ですが、僕としては、作品の魅力と優作さんに導かれて選ばされた訳ですから、僕自身の選考力は大したことは無かったと思います。書かれた時点ではまだ機が熟してなかったと言うか、4年もの間、このシナリオに込められた「念」に導かれるような優作さんイズムに溢れたプロデューサーは不思議とこの脚本に出会えなかっただけなんだろう、と思います。これもまた「必然」かもしれません。

そしてシナリオ「百円の恋」は、物語の魅力に惹かれたプロデューサー・狩野善則さんの目に止まり、そこから「優作賞受賞作だから」という理由で、東映ビデオの佐藤現プロデューサーの元へと渡ります。

佐藤さんは、松田優作さんに憧れ、黒澤さんを師匠と仰ぎ、優作さん主演のドラマを多く制作してきた東映ビデオに入社し、映画づくりを志された方で、大のボクシングファンでもある方です。

このシナリオに強く惹かれた佐藤さんが企画したことで、黒澤さんも後押しもあって、「百円の恋」の映画化は、様々な困難はあったようですが、佐藤さんたちの努力によって実現へと踏み出しました。

そして「女松田優作求む」という謳い文句が諸劇的だったオーディションなどを経て、主演に安藤サクラさんを迎え、シナリオづくりの発端から関わってきた武正晴監督によって完成しました。

考えてみると、松田優作賞の選考委員会は、セントラル・アーツの事務所がある、東映ビデオの会議室で行われたのです。

そこで選ばれたシナリオが、松田優作賞受賞がきっかけとなって、他のところでいろいろと読まれて目に留まって、そこからまた東映ビデオに戻って映画化される……これも「必然」を感じます。

佐藤さんが映画化を決意された頃、僕はセントラル・アーツを訪ね、黒澤さんから佐藤さんを紹介していただきました。「彼なら絶対に大丈夫。映画化を任せてほしい」と仰っていただいたことを思い出します。

映画の制作にあたっては、ありがたいことに僕も企画の発端に関わらせていただいたということから、ポスター等には「特別協力」としてクレジットさせてもらい、現場では「山口ロケ担当」という形で参加しました。劇場用パンフレットにも企画が成立する経過を執筆させていただきました。

「周南生まれの作品だから是非周南でも撮影を」という佐藤さんのありがたい意向のお陰で、山口県の周南市・下松市・光市でも撮影を行っていただきました。具体的には、一子がデートする動物園や海岸などのシーンを撮影し、ここが映画全体のクランクインでもありました。

嬉しかったのは、周南映画祭と優作さんの縁をとりもってくださった渡邉俊夫さんも、スチールカメラマンとして、この映画のスタッフで参加してくださったことです。

渡邉さんは優作さんが亡くなられたあと、優作さんを慕う俳優・ミュージシャンの石橋凌さんの導きによって映画のスチールカメラマンとなり、現在も第一線で活躍されています。

こうして流れを書くと、改めて「縁とタイミング」「必然」を感じます。

映画「百円の恋」は大ヒットし、日本アカデミー賞最優秀脚本賞、最優秀主演女優賞をはじめ、数々の賞を受賞したことは皆さんご承知の通りです。

日本アカデミー賞の時は僕も会場の片隅にいさせてもらいましたが、足立さんが最優秀脚本賞のスピーチで図らずも周南映画祭と僕の名前を出していただき、感謝の言葉を述べられた時は、周りにたくさんの人がいたにも関わらず、感激で嗚咽してしまいました。


足立紳さんの人間性に惹かれて


こうして「百円の恋」と松田優作賞について思い出していくと、いつもただの田舎に住む優作さんファンでしかない僕が、たまたま「百円の恋」が世に出る場所とタイミングに居合わせ、どうしてこんな「巫女」のような役割を担ったのだろう?と考えます。

それは、いじめられっ子だった僕が優作さんと数々の「映画」に救われてきたからこそ、映画の神様から御褒美を頂いた、と思うと同時に、僕自身が「百円の恋」というシナリオの面白さと、作者の足立さんの優しい人柄というか、人間性が滲み出た、等身大の悩める人たちのセリフやト書きに、強く惹かれたこともあると思います。

なぜ惹かれたのか、は僕がいじめや発達障害特性故に周囲の無理解に苦しんだ少年期があったからこそ、このシナリオに強く共感できたのだと思っています。

足立さんとは「百円の恋」以降も交流させていただいていますが、足立さんとは同じ匂いというか、いろいろと共通点も多く、僕の勝手な解釈ですが、実は結構人見知りもする僕にとって、ものすごく共感性が高い方なのです。だから出会う「必然」であり、優作さんの「念」に導かれるように「百円の恋」に魅せられたのではないか、と感じています。

主人公・一子は32歳の引きこもりです。その彼女が、とある出会いから中年ボクサーに恋をするものの、捨てられ、自分に「百円の価値しか無い」と自虐的になり、傷つきながらも、ボクシングに挑むことで、それまで負け犬でしかなかった自分の人生で初めて「勝ちたい」と思うようになります。

僕は、午前4時から暗い事務所でひとりシナリオを読みながら、一子の姿に、自分を見た想いがしました。僕は子どもの頃から馬鹿にされ、大人になってからも挫折して一時期はホームレスになったこともあります。

ですが、それでも自分の心に芽生えた小さな「炎」に執着し、周りのサポートを受けながら頑張って生きてきました。どん底に落ちても、周りに無謀と思われても、狂ったように自分の可能性に挑む一子は、まさに僕自身でした。

だから、そんなシナリオが光って僕にアピールしてきたことも「必然」だったのでしょう。

そして、一子や僕のある意味無様な生き方は、今になって、同じ山口県人である「松田優作」さんという方の生き様を様々な書籍や証言を読みこんで辿った時、強い強い共感性を抱くのです。

伺うと、足立さんも大変な苦労をされています。

「松田優作賞」の名前に惹かれて「百円の恋」を満を持して応募したものの、この賞がダメだったら脚本家の道を断念することも考えておられたそうです。足立さんもまた一子の如く、どんなに底辺にいても、あがき続けたからこそ、その生き様が「百円の恋」にこもっていったのでしょう。

だからこそ「俺は24時間映画のことを考えている」と仰って、映画に人生を賭けた優作さんの「念」は、足立さんの精神性とも共通点が多く、書かれた時から一文一句内容は変わってなくても「松田優作賞」の冠がついたときにシナリオはたちまち光り輝き、たまたまそこに僕がいてその内容に自分の人生を重ね、そこから「必然」として優作さんの「念」に共感できる方々にシナリオが渡って形になったのだと思います。

これは「百円の恋」に限ったことではありませんが、足立さんが書かれる脚本や小説に出てくる人物は、みんな成功していても失敗していても、何がしかの辛さやしんどさを抱えながら、それでも自分の人生を、その場所で、小さな希望に向かって懸命に生きている人たちで、その人物描写は本当に素晴らしいものばかりです。

足立さんは2023年には朝ドラ「ブギウギ」を手がけるなど、脚本家に留まらず監督・作家としても大活躍されていますが、息子さんが発達障害の診断を受けられていることもあって、様々に交流させてもらっています。いつか2人で「発達障害をテーマにしたエンターテインメント映画を作りたいね」なんて話しているのですが、いつかその夢を実現させたい、と思っています。

かなりの長文になってしまいましたが、この美由紀さんのお言葉を紹介して、この文章を終わります。

映画祭松田優作賞足立さん
授賞式直後、晴れやかなお顔の足立紳さん

松田 ぜひみなさん、本当に観てほしい。これは松田優作の名前がついて、亡くなってから初めて作られた映画になったわけなんですけど、観てる間に途中からこみ上げてくる喜びっていうんですか。この映画が優作の名前がついてよかったなって思った映画だったんですね。だから名前がついてるのに内容が伴っていなかったらがっくりするじゃないですか。

映画「百円の恋」ホームページ スペシャルコンテンツより

2021年開催の第11回周南「絆」映画祭では、久しぶりに生誕の地にて「百円の恋」を上映し、僕が司会をさせていただき、武監督、足立さん、佐藤さんをお招きしてのトークショーを行い、安藤サクラさんからも心のこもったビデオメッセージをいただきました。

会場には全てのきっかけとなった渡邉さんもいらっしゃり、この模様をカメラに収めていただきました。

トークショーではここで書いたエピソードを披露し、これまでを振り返りましたが、思わずゲストの皆さんも私も、感極まるものがありました。その時「百円の恋」を観て改めて思ったことは「本当にいい映画だ」ということと、これは足立さんが言われてましたが、常に自分たちの今の「生き方」を問われる作品だ、ということです。

だからこそ、松田優作賞を設立してちょうど10年目の2022年、美由紀さんから仰っていただいた「情熱」が今の僕にあるのか、と問いたいのです。

第1回から4年後に第2回松田優作賞を開催しましたが、第2回受賞作「春の約束」はまだ映像化されていません。

そして第3回もなかなか実現まで至りません。ですが、あのときの「情熱」を持って、またあくまでこれは美由紀さんをはじめとする皆様にお許しいただければの話ですが「第3回松田優作賞」を開催する力をつけ、再び開催したいです。

そして僕も松田優作賞が実現したときの「情熱」を忘れず、いつまでも優作さんに憧れながら、一子のように、がむしゃらに生きたい、と思います。

※記事内写真提供・管理元/周南映画祭実行委員会


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