エッセイ ヨーロッパの広場 2024年4月17日

映画「ピータールー」のブログからの派生である。

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/24291791.html

この虐殺は1819年にマンチェスターで起こった。
映画「ピータールー」の中で、虐殺が起こったのは、、町の中心地ピータールー広場であった。日本語のイメージで言うとセントラル パークである。
そういえば、日本には町の中心に広場が歴史的にない。
中南米はほとんどがスペインの植民地であったが、今も残るかつての植民都市、つまり多くの国の首都や地方都市には、セントラル  パークが町の中心にある。その広場に面して教会や行政庁舎、市場、学校が建っている。今でもその文化遺産を引き継いで、新しい町にもセントラルパークが作られている。

セントラルパークの起源を調べてみると、古代ギリシャのアゴラが発祥のようだ。民会という直接民主政の会議が行われた重要な場所であった。
古代ローマではフォルムと呼ばれた広場があり、市場としてや、政治集会、宗教行事として使われた。

ヨーロッパではその伝統を引き継いで、セントラルパークがあり、マンチェスターでもピータールー広場があった。
ロンドンのハイドパークでは木箱一つを持ってきて、その上に乗って演説を始める人たちがいる、と聞いたことがある。セントラルパークとはそういうものなのだろう。

日本では唐の律令制を取り入れ、平城京、平安京ともに、町中に市(市場)を設置した。が、それは商用の広場で、政治や宗教目的には使われなかった。つまり中国にも政治集会、宗教行事のためのセントラル パークは無かった。需要が無かったのである。
江戸時代には集会の自由が無かったので、そもそも庶民が集う広場は無く、宗教行事として年に何度か寺院内で集まることが許されているぐらいだった。江戸で広場と言えば、防火目的の広小路があるくらいである。

つまり江戸時代、農民が生活の改善を求めてどこかに集まるにも、ピータールーのように7万人も集まる場所がなかった。多分庄屋や代官屋敷の前に集まったのではないか。そもそも寺以外で人が集まることは禁止されていたから、人が集まった時点で、いきなり打ちこわしになったのではないか。

日本では主権者がものごとを決めるとき、せいぜい広くて大広間で決めたのである。多くは根回しで決まったのではないか。
もちろん中世、近代のヨーロッパも大広間で決めただろう。しかしそれ以外の方法も模索されていた。多大な犠牲者を出したピータールーでの出来事もそのひとつだ。

中国文化圏のものごとの決め方も、時と場合によって、良くも悪くも作用するだろう。同じように、ヨーロッパ文化圏のものごとの決め方も、時と場合によって、良くも悪くも作用するだろう。

しかし民主主義の時代では、中国文化圏に馴染んだ私からすると、ヨーロッパ文化圏の方法がひどく羨ましく感じられるのである。


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