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まずは少し濡れたスポンジになる

 とある昼下がり。
 都内某所。

【自己啓発セミナー:今、何かを始めたいあなたへ~挫折しないために必要なこと~】

「あなたたちは乾いたスポンジです!」

 開口一番、登壇者は言った。ガタイがいいというよりは小太りで、緑のポロシャツはよれよれだ。歳は三十前後といったところか。黒縁のメガネが妙によく似合っている。
 要するにどこにでもいそうな青年だ。彼が会社員でも、個人事業主でも、医者でも、作家でも、テレビのアシスタントディレクターだとしても驚きはしない。町ですれ違っても風景の一部として特に気に留めることもなく通り過ぎるだろう。

 そんなどこにでもいる普通の青年が唾を飛ばしながら語る言葉に、聴衆は皆、時を忘れたように聞き入っていた。

「料理をされる方ならわかると思いますが、おろしたての乾いたスポンジは水をはじきます。こう……なんかちょっと、なじんでないんですよね」
 小太りの登壇者は片手をあげて、スポンジを揉むような動作をした。
「では、水を吸うためにはどうすればいいか。わかりますか? わかりますよね?」
 満面の笑みで会場を見渡す。聴衆は彼の問いかけに無言で頷く。

「そう、少し濡れていなければなりません。――何かを始めたいみなさんが初めに目指すべきなのは、ここです」

 よほど気持ちが昂ったのか、背後の黒板を手のひらで叩きつけた。会場内に音が響き渡ったが、聴衆は怯えることなくまっすぐに彼を見つめている。

「何かを始めたいときまずやるべきことは、カラカラに乾いた今の状態から、水を吸収できる状態にもっていくことです。つまり、まずやってみるということです。一から勉強することではありません。何も経験がない状態――乾いた状態で勉強したところで、知識という水を吸うことはできません」
 おお、と声があがった。

「まず、やってみる。いいですか? 今日覚えて帰って頂きたいのはこれだけです。やりたいことがあるなら、まず、やってみる。勉強はそのあとです。少しでも経験があるかないかで知識の吸収量は格段に違います」
 聴衆が皆一様に俯く。メモを取っているのだ。

「まず、やってみる。今日からこの言葉を胸に置いてくださいね。――ご清聴ありがとうございました」
 特大の拍手。

 熱気に満ちていた。
 誰もが酔っていた。
 自分を変えたいと望み、何か手がかりを掴もうと足を運んだ聴衆の心にストンと落ちてきた言葉、そしてその言葉を発した小太りの彼に、心酔しなかった人など……

「てかさあ、なんか上から目線じゃなかった?」
 いた。
 セミナーからの帰り道、一緒に申し込んだ女友達が吐き捨てるように言った。

「まずやってみる、って。皆そんなことわかってるよ。わかっててできないんじゃん。だからこういうセミナーに来てるのにさ。てか、あいつのプロフィール見た? K大卒って。結局あいつは自分にサイノウがあるから簡単にああいうことが言えるんだよね。うちら凡人の気持ちなんてわかんないんだって。あー、たっかい金払ったのにさ。無駄にした気分」

 彼女の口からすらすらと紡がれる悪口。苦笑して同調しているふりをしつつ、右から左へと聞き流す。

「いやマジでさ。新しいことを始めたいって思うんだよね。気持ちだけはあるんだよ。このままじゃダメだと思ってるし。でもなんかさあ、時間とかないし。お金もかかるし。サイノウとかないし。そういうことを解決したくて話を聞きにきたのにさー。結論がまずやってみるって。結局できる人は最初からできるんだよ。それを思い知らされただけだったし」

 小太りの登壇者の言葉は一種の魔法めいた力を持っていた。
 彼女の言葉もまた、うっかりすると引きずり込まれる力を持っている。

「そうだよね。わかるよ。――気分転換にさ、お茶でもしながら夏休みの計画でも立てない?」
「そうしよそうしよ! あ、この近くにさ、雑誌で見て気になってるカフェがあるんだ」

 それきり彼女とこの日の話をすることはなかったし、何かを始めたという連絡もなかった。

 水は低きに流れる。
 低きに流れるよう促す言葉が世の中にはあふれている。

 まず、やってみる。

 あの日の熱を忘れない。
 あの彼を忘れない。
 彼だってきっと、苦しみぬいた結果としてあの言葉にたどりついたのだ。

 まずは濡れたスポンジになろう。

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