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教材研究派と子どもへの働きかけ派

「授業力」をひと言で定義するのは難しいことです。おおまかに言えば、授業を推進する力ということは言えますが、授業を推進するのに「教材研究」を中心に推進するタイプと、「子どもへの働きかけ」を中心に推進するタイプとがあります。

私は中学校の国語教師ですが、もともとは「教材研究」を中心に推進するタイプでした。それが「子どもへの働きかけ」を中心にするタイプの多くの仲間を得て、その発想や技術を学んできたという実感があります。

これまでの教師人生において多くの国語教師と接してきましたが、「教材研究推進派」が「子どもへの働きかけ」の妙を身につけることのできる確率はけっこうな割合がありますが、「子どもへの働きかけ派」が「教材研究」の妙を身につけるのはほとんど不可能に近いようです。授業の原動力となるような「教材研究」には、やはり多角的な視点や学術的な裏付けなどが必要で、それらに教師をやりながら取り組み始めるということに無理があるようなのです。

教師をやりながら学術的な研究にも取り組んでいる人はたくさんいる、そう反論されたい向きもあると思います。しかし、そういう方々は実は「教師をやる前から」そういう研究に没頭していた人たちであって、教師生活が始まってから取り組み始めたわけではありません。そこのところに大きな違いがあるのです。ここには如何ともしがたい業のようなものがあるように感じています。

では、「子どもへの働きかけ派」の教師たちは授業推進力をどのように高めていけば良いのか。それは「子どもへの働きかけ」の授業技術を更に高めて行くこと、日常生活においてちょっとした興味をそそられる事象を徹底的に収集するタイプの教材開発、この2点に集約されるように感じます。変に学術的研究を求めたり一つのことを多角的に見ようと分析したりせずに、子どもたちの興味をそそりそうな「雑学的なおもしろいもの」を徹底的に収集するのです。深さではなく広さで勝負すると言ったらわかりやすいでしょうか。

「教材研究派」は授業づくりにおいて、自らの教材研究の到達点に子どもたちを到達させられないかと発想します。それはほとんど夢物語に近いものです。子どもたちがそこまで到達することはあり得ません。しかし、私にも経験があるのでよくわかるのですが、彼らはみんなこれを夢想するのです。これが心ある「教材研究派」たちに、自分の授業をどのように子どもたちに機能させるか、少しでも自分の到達点に子どもたちを近づけるにはどうしたら良いかという視点を抱かせます。その結果、少しずつではありますが、「子どもへの働きかけ」の妙に目が向き始めます。これが「教材研究派」が「子どもへの働きかけ」の妙を身につけていく場合の基本ルートになります。いわば、「教材研究派」から授業推進力を身につけていく人たちは、自分の特殊性に自覚的であり、その特殊性に対する自己否定をその原動力としているわけです。

しかし、「子どもへの働きかけ」派は趣を異にします。彼らは子どもたちとの共通感覚、共同感覚を原動力としています。子どもたちはこう問えばこう考えるだろう、子どもたちはこうした活動をすれば必然的にこれを学ぶに違いない、こうした発想の根幹にあるのは教師が自分と子どもたちとの間にある共通感覚を信じる姿勢です。共通感覚を信じる姿勢は、方法さえ妥当なものであれば子どもたちもこの共通感覚を実感できるはずだという方向に向かいます。従って、教材そのものの研究ではなく、授業技術や授業展開、学習活動の質、子どもの認知の在り方などに興味が向いていきます。その結果、その教材自体がもっている価値を深く掘り下げようという方向に思考が向いていかない傾向があるのです。教材研究に本格的に取り組むとなると時間がかかります。一つのことに時間がかかり過ぎるわけです。「ごんぎつね」でも「一つの花」でも、作者論や作品研究といった先行文献(実践研究のことではない)を集めて渉猟するのに、どれだけの時間がかかるかは想像ができるはずです。これまた私にも経験があるのでわかるのですが、夏休みをまるごと使って一教材というのが限度なのです。こうした研究に取り組むことと教師生活を両立するのは現実的ではありません。

「教材研究派」と「子どもへの働きかけ派」とでは、実は「教材研究」という言葉を異なった意味で使っているところがあります。前者のなかでは教材のもととなっている「素材」の研究が「教材研究」の多くを占めます。後者においては、「素材」の研究は指導書に掲載されている程度で充分であり、それを子どもたちがどう捉えるかとか、子どもたちがどのような思考を経てそこに到達するかとか、或いは子どもの到達への筋道には何通りが考えられるかとか、こういうことを考えることが「教材研究」です。

「教材研究派」は子どもの思考を単線的に考えやすい傾向をもっていますし、「子どもへの働きかけ」派は教材の価値を浅薄に考える傾向があります。

昨今、協同学習やファシリテーション、ワークショップ型授業など、活動型の授業が隆盛を極めています。ここうした活動型の授業において、それを機能させるためにとても重要なのが「課題」と「設定」です。では、「課題」と「設定」、どちらが大切なのかと言えば、こうした学習活動が子どもたちに学びを保障するのはやはり「課題」の質だと言えます。ある程度の時間を使って、子どもたちが自力で体験したり話し合ったりということに堪える、適切な「課題」が必要なわけです。

こうした「課題」は、最初はこうだと思っていたことが実はこうだったとか、その課題に取り組んでいるうちに三つの問題点が浮かび上がってきてそれに取り組んでいるうちに新たな大きな発見があるとか、そうした二重三重の仕掛けをもつ課題であることが理想的です。「設定」とは本来、そうした「課題」の仕掛けを適切に機能させるように施すフレームワークのことです。「課題」を考案することは、教材自体、素材自体に対する深い研究が必要です。これは「教材研究派」ヶの得意とするところです。しかし、「教材研究派」はこうした「課題づくり」は得意としているものの、それを更に機能させるような「設定」の妙をつくることを不得意としています。ここが「教材研究派」の問題点だと言えるでしょう。

逆に、「子どもの働きかけ派」の活動型授業は多くの場合、「設定」のみに頼ったゲーム性の高いものになりがちです。確かに楽しいのですが、学びが少ない、多くがそういったものになってしまいます。確かに「設定」のフレームワークによって意欲を喚起することは可能ですが、到達点が勝ち負けに過ぎなかったり、活動体験に基づいたリフレクションやシェアリングに頼りすぎてしまっていては、子どもたちは自分を超えるもの、自分の頭のなかを超えるものに目が向かなくなってしまいます。これでは授業どころか、教育の根幹をはずしてしまいます。ここに「子どもへの働きかけ派」の限界があると言えるでしょう。

授業研究は古くから、複数の教師が集まって共同研究で指導案をつくることを旨としています。その指導案が研究授業として実践され、成果と課題が積み重ねられていく、そういう流れで構想されます。
しかし、年に1回から数回の授業研究ではなかなか力量を高めることができません。これは「教材研究派」であっても「子どもへの働きかけ派」であっても同様です。

私は「授業力」を身につけようとするなら、授業研究を目的とした仲間をもって最低月に一度、できれば月に二度程度の定例会を開いて議論し合うしかないと感じています。しかも、そこには必ず、「教材研究派」と「子どもへの働きかけ」派がともにいなければならない、そう感じています。双方が双方から互いに学び合う、その前提がなければ授業力の捉え方自体が偏ってしまうからです。

多くの教師は、授業研究を一人で行っています。仲間をもって共同研究する教師でも、同じような実践をしている同じようなタイプの教師で集まって共同研究をしています。「教材研究派」と「子どもへの働きかけ派」がともにいるという共同研究はほとんどありません。両者が半々ずついるという共同研究となると、おそらく全国に皆無なのではないでしょうか。

読者諸氏がほんとうに授業力を高めたいと思うのならば、このことに自覚的である必要があります。

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