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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その九)

コイエットがゼーランディア城に籠って9か月を耐え忍べたのは、この城の構造に理由があると考えられます。結局のところ、鄭家軍はこの要塞を落とすことができませんでした。
しかし、ユトレヒト砦を失い、戦意を大きく失ったオランダ軍は自ら降伏することを決定します。鄭家軍はこれを受け入れ、名誉ある撤退が行われることになりました。


星型要塞

17世紀のヨーロッパでは、星型要塞、あるいはイタリア式要塞と呼ばれる築城術が発展していました。これは要塞を攻める火砲の技術が進歩するのに対応して、防御する側の要塞の弱点をなくすための工夫です。
この形状の特徴は攻め手の軍隊が城壁に近寄った際の安全地帯を無くすことです。中世からよく見られる円形の要塞では、城壁から下にいる敵軍を攻撃する際に、壁の円弧形状により死角ができてしまいます。
これに対し稜堡と呼ばれる突起部分を備えた平面形状は、守り手にとっての死角、攻め手にとっての安全地帯を無くすことができます。
ヨーロッパでは、イタリアでこの様な幾何学的形状の要塞築城術が16世紀に開発され、その後各国でこの計画が真似されていく様になります。


守り手にとっての死角を無くす平面形状

膠着戦

16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパにおいて火砲の技術が発達するに伴い、この様な築城術が一般化していました。タイオワンにおけるゼーランディア城もその様な形状を持っています。攻め手側にとっての安全地帯が無いわけです。
鄭家軍はおろか、中国の過去のどの軍隊、日本の軍隊もこの様な星型要塞に攻撃を仕掛けたことはありません。鄭家軍がゼーランデイア城を攻めあぐねた理由は、この事が大きいと思われます。
鄭家軍はプロヴィンシア城を落とした勢いを借り、ゼーランデイア城を包囲し、これを孤立させますが、ここで戦況が固まってしまいます。

援軍

4月30日に鄭家軍の攻撃が始まって3ヶ月半、8月12日オランダ側にとっては待望のバタヴィアからの援軍が到着しました。しかし、この援軍も天候不良が災いし、沖合に足留めされてしまいます。
9月24日になり、とうとうオランダの援軍は上陸作戦を敢行します。しかし、これも船を所定の位置に配置することができなく、作戦は失敗してしまいます。

援軍の指揮者であったカウは、結局のところゼーランデイア城に上陸し、援助の物資を送り届けるという作戦を達成できませんでした。

裏切り、そして開城

そしてこの援軍の撤退が、ゼーランデイアの籠城する軍隊の士気を大きく失わせてしまいます。12月16日、鄭家軍に投降する部隊が現れてしまいます。これはゲルマン人 Hans Jurgen Radis の指揮する若干12名の部隊でしたが、問題はこの部隊がぜーランディア城の現状を包み隠さず、鄭家軍に伝えてしまったことです。そして、城の弱点であったユトレヒト砦を攻めることがゼーランディア城攻略のかなめであることを教えてしまいます。鄭家軍は1662年1月25日に、ユトレヒト砦に総攻撃を開始。持てる火力の大部分をここに注いで、この攻略に成功します。

1月27日、この戦いで籠城戦の見込みを失ったタイオワン評議會は、鄭家軍に降伏することを決定します。

歴史的評価

ゼーランディア城の攻防戦は、西洋の軍隊に対して中国の軍隊が勝利をおさめた稀有な事例として有名です。僕は、この事例に先立ってポルトガル軍に対しての明朝の軍隊の勝利、料羅灣におけるオランダ軍に対する鄭家軍の勝利があるので、この事例は中国側の初めての勝利ではなく、過去に似た様なケースがあると考えています。

ただし、過去の事例と異なっているのは、過去の二例がどちらも海戦、海上での船の優劣と数量に関わる戦いであるのに対し、この戦いはゼーランディア城という西洋の新しい形の要塞建築を攻めるという、陸上の戦いであることです。
しかも、オランダはこの近世という時代において、この要塞築城については先進的な技術を有していました。例えば江戸時代末期に、函館の五稜郭がオランダ人顧問の設計により築城されています。これはゼーランディア城攻防戦から実に200年後の事です。その時点でさえ、オランダの築城技術は世界的に優れていたということです。

コイエットは戦略的環境としては、最悪の状況に置かれています。バタヴィア本部からの援軍は得られない、軍事的専門家は船で戦場から離れてしまっている、戦力は鄭家側の10分の1程度しかない。客観的にみると、とても悲観的な状況です。
しかし、このゼーランディア城は、ヨーロッパで案出された、砲撃や陸上戦力に対する防御力をこの当時で最大限持っている要塞でした。戦術的にはこの点にのみコイエットの優勢がありました。そのことを彼は自覚していたのでしょう。オランダ東インド会社は継続的にこの要塞の修復にお金を費やしています。

中国の軍隊は、この様な要塞に対して戦闘を行ったことはなかったわけです。それは比喩的にいうと日露戦争における旅順港要塞に対する、日本軍の攻撃の様なものだったのかもしれません。肉弾戦に訴えても何ら成果が上がらない、ひたすら人的被害を増大させる様な戦い。鄭家軍が行っていたのは、その様な意味で、近代的な西洋の要塞に対する、一時代前の戦い方だったのではないか。その様に考えています。

コイエットは、この様な西洋式の要塞に立て籠り、鄭家軍の攻撃に9か月に渡り耐え忍んできましたが、援軍による補給も得られない、城内に蓄えた糧食も底を尽きるといった状態で、やむなくゼーランディア城を開城することになりました。タイオワン評議会の総意としてこの決定をしています。

彼としては、なすべきことを全て行い準備を整えたうえで、この事態に立ち向かっています。この様な結果になったことを残念に思っていたでしょうが、悔いはなかったのではないかと想像しています。

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