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【台湾建築雑感】台湾建築師の歴史(その三)

「誰是建築師? 臺博館辦展回顧二戰後臺灣現代建築師制度的演變」の展覧会の内容に基づいた、台湾の建築師の歴史を説明する第三回です。今回は、アメリカによる支援の時代が始まって後の、建築教育に対するアメリカの影響を述べます。

前回までの説明は、下記のリンクでご覧ください。

5-1 アメリカによる援助と現代の台湾建築師

「教科書に書かれているように、1950年に勃発した朝鮮戦争により、アメリカ第七艦隊が台湾海峡に配備され、台湾人の生活に深く影響することになりました。この戦争により、1948年に《台湾関係法》が制定され、我々が『アメリカ援助時代』と呼ぶ時代が始まりました。

『アメリカ援助時代』が台湾に及ぼした影響は生活全般に渡るものでした。アメリカと中華民国共同による製品を示す小麦粉があった他に、「建設業」についても初めての全面的な改革が行われました。アメリカの資金、製図技法、建設技術、教育システム等、たくさんのアメリカからもたらされた"モノ"が台湾の社会を揺るがせただけでなく、日本時代に培われた建築の管理と建設工事のシステムを刷新しました。」

現在の台湾の建築法規や設計図のまとめ方をみると、日本とは異なっていて、アメリカのシステムに準じていると思われる部分が多々あります。その理由は、このアメリカによる援助の時代にもたらされた建築技術の移転にあったということですね。その歴史的な背景がよく分かります。
これは、考え方によっては、台湾は日本とアメリカの建築生産システムを双方とも知っていて、現在それを取捨選択、ハイブリッドして使っているということです。僕はこの違いを見て、日本よりも合理的と感じる部分があります。そのことはまた後で紹介します。

5-1 アメリカによる援助と現代の台湾建築師

5-2 啓蒙の時代

「アメリカの援助は、台湾の戦後の建築技術の発展に大きな影響を及ぼしています。教育の面では、台湾大学、師範大学及び成功大学とアメリカの大学との間の学術交流を促進し、さらに東海大学の設立にも関わっています。このうち、成功大学とピッツバーグ大学間の学術交流と東海大学のキャンパス空間の計画は、建築教育の点でエポックメイキングな出来事でした。

アメリカの最新の建築に関する書籍や雑誌が持ち込まれ、両国の教授同士が交流を行うことで、成功大学の建築学科は知識を得る手段と教科の内容が次第に変わっていき、戦後日本の教材をそのまま使っていた状況も変化していきました。

費用が準備され、中国キリスト教大学連合董事会が「自由中国」の理念による教会学校の設立を構想したことで、貝聿銘(I. M. Pei)、陳其寬と張肇康をリーダーとするチームが招聘され、東海大学のキャンバス計画が設計され建設されました。これは建築教育の上で重要な出来事だっただけではなく、この経験は陳其寬や張肇康という人物を通して大学の中に浸透していきました。」

東海大学にI. M. Peiの礼拝堂があるのは有名で、見学に行ったことがあります。しかし、それだけではなく、東海大学のキャンバス自体がアメリカの影響によるものだということです。

また、成功大学による高等建築教育が始まったのは日本統治時代ではあるのですが、ほとんど第二次世界大戦末期の設立で、実質的な教育は行われていなかった様に思われます。それがこのアメリカの援助による時代に換骨奪胎された、アメリカナイズされたものになった。そして、それがために成功大学は今の台湾でも建築の最高学府となっているんですね。

5-2 啓蒙の時代

5-3 理想の実現

「アメリカの援助により建築図書が持ち込まれ、金長銘による指導と応援の元、成功大学建築学科の学生達は基礎的な技術を学ぶ以外に、1956年から《今日建築》の編集と出版を始めました。これは戦後の学生による設計刊行物の嚆矢であり、同時に台湾の戦後の建築教育がアメリカの援助による「モダニズム」の影響の元、実務のみを重視する技術訓練という状態から、次第に建築設計によって人間の生活する環境そのものを変えるという教育方針に変わっていったことを示しています。

戦後、東海、中原、淡江、文化、逢甲などの大学が設立され、6つの大学による台湾の戦後の建築教育体制を形作りました。そして、それぞれの学校で学生は自主的に刊行物を発行し、その時期の主要な考え方を紹介すると共に、学生による学術的な理想に対する想いを表現しました。」

日本の建築教育は、どちらかというとデザインの面に重きを置いている様に思います。空間形成や視覚的効果などですね。上記の説明によると、アメリカナイズされた建築教育というのは、もう少し形而上学的な考え方の様です。

5-3 理想の実現

5-4 意外な事件

「「政治による干渉」は戦後の建築界に対する大きな問題です。1937年、世界建築師会議 (CPIA,後の世界建築師協会UIAの前身)は「中國政府」に1939年の会議への参加を要請しました。しかし、政府当局はこの会議には左翼思想の色彩が濃厚であるとし、参加せずと決議しました。そのため、その後人数を絞って会議に参加することを許可しましたが、最終的には時間切れで参加することができませんでした。

1970年代、中華民国が国連を脱退した後に台湾は世界建築師協会(UIA)に参加しようとしましたが、厳しい国際環境の元、それは実現しませんでした。1991年アジア太平洋経済協力(APEC)に参加して以降、協議の上ようやく他国の建築師の資格と相互認証をすることに成功しました。台湾の建築師制度と資格を国際的なルールに合わせることができました。」

5-4 意外な事件

5-5 世俗の外で

「1949年、中華民國政府が多くの軍人民間人を伴って台湾に撤退し、「台湾の中華民国」の時代が始まりました。この時中華民国政府と一緒に、共産中国の圧迫のために中国にいられなくなった多くのキリスト教宣教組織もやってきました。

たくさんのキリスト教宣教師が1950年代台湾にやってきて、台北、台中、花蓮、嘉義や台南などに教区を設立し、礼拝堂を建設しました。この時、物資は不足し建築師も少ないという社会的状況で、この様な礼拝堂の建設の多くは外国の建築技術者に依頼して行われました。これは台湾の戦後の建築発展史上特筆すべき流れの一つです。」

台湾の中華民国時代の初期のキリスト教者について、リービ英雄の「模範郷」という作品を読んだことがあります。この小説はもっぱら子供の視点から見たキリスト教宣教師の両親と、台湾社会の関わりを描いています。
そのことと台湾の建築の歴史が関わっているというのが面白いですね。

また、noteの別のところで、ゴットフリート・ベームの設計した菁寮聖十字架天主堂のことを紹介しています。この様なプロジェクトが実現した歴史的背景があることも分かり、とても興味深かったです。

2-5 世俗の外で

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