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知られざる哲学書というか『オムレット』について。

『伊丹堂のコトワリ』絶賛発売中、ですが、この本が『オムレット』というマンガの続きであることは何度か書きました。しかし、その『オムレット』については、詳しく書いてませんでしたので、ここでちょっと覚書的に書いておきたいと思います。

まず、この『オムレット』が発行されたのが、忘れもしない1999の年、1月15日で、当時は「成人の日」でした。それは関係ないような関係ある話でもありますが、それは置いといて、この『オムレット』、著者は「心の科学研究会GNC」と、マンガは「ひるます」となってますが、実際は私(ひるます)の単著です。いまもアマゾンで検索するとでてきます。

↑に表示されたのは4,900円ですが、高い時は数万円で取引されてたこともありました(笑)。あと、現在、一冊しか在庫がないようですが、検索したときによってまちまちですので、なくなってもそのうちまた出てくるんだろーな、と思ってます。ほんとに出なくなったら電子書籍にして出すしかないとも思いますが、出していいのかな??

ま、当時は結局あまり売れずに、世の中から見向きもされませんでしが、一部のネットなどでは話題となったものです。ちなみに最大にとりあげていただいたのは、森岡正博さんの『まんが 哲学入門―生きるって何だろう?』 (講談社現代新書)という本の「読書案内」で紹介されたことでしょう。

マンガという形式で哲学を語る、という同じ主旨の本であったので、「先駆的な存在」として取り上げられたという次第です。ちなみにこんなマイナーな本をなぜ森岡さん(生命学の先生)が知っていたのか??というと、それは私ひるますが当時、伊丹堂関連のエッセイを書かせていただいてた「カルチャーレビュー」の発行人である黒猫房さんが当時、臓器移植関係の問題を提起してまして、その関係で、つながらせてもらったのでした。

まあ発表の舞台を与えていただいた黒猫房さんに感謝です。

ちなみに以下で、私の文章をいまも読むことができますので、ぜひご覧ください。
・カルチャーレビュー

ということで、『オムレット』の中身です。

こちらは目次でいうと、

  1. 心のありか(心はどこにあるのか)

  2. 心とカラダのラプソディ(心と体はどうつながっているか)

  3. 「自分」って何なんだ?

  4. 意味と情熱(人の生きる意味とは?)

  5. 心を世界につなぐもの(成長とは?社会とは?)

という、五つのテーマでできてます。

第一章の「心のありか」が、いわゆる認識論で、認識とはなにかというところを脳科学的な文脈で書いてます。いまではワリと常識からもしれませんが、主体―客体という図式を批判して、生命にとって、「世界」としてあらわれる「背景」そのものを「心のありか」として示しました。
「心」がある、という実体論ではなくて、「心のありか」すなわち背景が心だ、としたところがスゴイ(自我自賛)。

第二章はこの背景と身体のつながりを考えていくならは、その背景はカラダ全体に広がっていくどころか、自分がかかわる環境という外側の世界にも広がっていく、というアフォーダンス的な話となり、けっきょく心は外側の世界にもひろがっていくといことになります。

第三章は、それをふまえて「自分」っなんなんだ〜?という話になります。「自分」とい固定したものはなく、背景として自分があるのであれば、いわゆる自分が自分と思っているものは、経験の積み重ねで生じたなんらかのレシピのカタマリだということになる、なので「自分は後からついてくる」ということになるわけです。あとこの章では「ヒラメキ」というものが人が生きる上で大切なんだ、というような話もでてきますね。

第四章。これは超ナンカイと言われた章です。人がなにかを作り、または何かを為す、というときに実はなにをやっているのか、ということを考えると、単純化していうと、人は「AはBである」というふうに「コト」を作っている。言葉になってなくても、あるコトをやる、というときは、まるで言語を使っているかのように、コトを作り出している。それは「他人を配慮しつつ」つまり、ほかの人にもわかるように「文脈」を作り出すように、作られている。これを「コトの創造」と名づけました。

コトが他人の共感を得ることが、その人にとってのリアリティであり、価値となる……、というと単なる承認欲求みたいですが、ここでいう「他人」は必ずしも実在の誰かさんではなく、いわばコトの創造に構造的に織り込まれた「他者」です。これをラカンの「黄金数」と絡めて語ったところがまた面白いところです(自画自賛)。

このへんは難解というよりあまりにぎゅうぎゅう詰めにしてしまったので、もうちょっとゆっくり展開してみたいところです(まあずっと言い続けていることですが……)。

で第五章は「成長と社会」について、となります。

このあたりもそこそこ面白いですが、やはり伊丹堂シリーズでより突っ込んで語っているところではあります。

ということで、伊丹堂シリーズもご覧いただきたいですが、こうして振り返ってみると、やはり『オムレット』で最初に前提としている「背景」、または「生命にとって現れる世界」ということが非常に重要です。

このような捉え方そのものは、実は経済人類学者として知られる栗本慎一郎「暗黙知理論」からの影響が大きいです。そのものといってもいいかもしれません。じつは『オムレット』にも栗本氏が登場するのですが、そこで何を語っているかというと、

「言語は思考の辺縁である」

栗本慎一郎「意味と生命」

というわけです。これはコトの創造の考え方でいうと、言葉は、何ごとかを語り、為すための「ヨリドコロ」であるが、思考そのものではない、ということです。あくまで思考が中心、言葉は辺縁。だが、言葉がなければ、人は思考することもできない、というふうな循環論になっている。これは栗本氏が暗黙知を語るときによく使いますが、細目をみなければ、全体がみえないし、全体のイメージがなければ細目がとらえられない、というやつです。

循環論だからダメ、ではなくて、循環論的な現実を人が生きているという発見がダイジということです。

以上、『オムレット』の概要です。ぜひ古書で入手していただきたいものです。まあ予習として「伊丹堂のコトワリ」もぜひご購入ください。(宣伝です)



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