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階下から聴こえるギターの音色⑨(後編)結局は、小さな世界

※本記事には前編中編があります。

子どもは大人に比べて
この世に誕生してからの時間は短い分、
いのちや宇宙の大きな巡りの時から
分離されていないだけ
潜在的に繋がり
知っているのだろうと思います。

けっきょくは、ちいさな世界なんだよ
ということを。
そのように感じられるからこそ
胸が痛む現実が、
この世界には
残念だけども溢れてる。


とるにたらない日常こそ
それぞれに違うからこそ
ひとりひとりのせまさで響く
それを奪わせてはいけないし
差し出してもいけない。

それが平穏な日常にある者の
役割だとも思います。

痛む胸のその柔さを盾に
優位に立とうとか
美化しようという話ではない。
そんないじけた視点は論外。

だって、違和感は厄介です。
胸の痛みも扱いがむずかしい。
センチメンタリズムと
紙一重なところもある。
しっかりと丹田にちからを
維持できるようにならなければ。

こだわりや執着も
同じかもしれません。
でも「違うことはしない」
意識を軽やかに、持続したい。

本当にそれらは、
自分のために、
世界のために、
見ぬふりだけはもうできないと
改めて思うのです。

何を買うか、
何を食べるか、
何を選択するか
どう生きるか
どう、在るか。

最近よく思い出すのが、
最初わたしは「塩」だった。

精製された塩が主流で、
値段も安く市場にも多くあり
手にとりやすいくなっている。

なぜ自然塩とよばれるもののほうが
まるで隠されるようになっているのか。
本来である物の方が
値段が高く設定されているのか。

価値ってなんなんだ? と
考えさせられました。

育児が始まる前でしたが
身体や命のことをより
考えるようになっていたし
農家だったばあちゃんが健在で
骨粗しょう症のことが身近にあった。

とにかくそのタイミングで
手にし、足を運んだ先で
出逢った様々があるなか
「塩」は特に自分事と感じ
立ち止まらずにはいられなかった。

「どうして?」
と、こみあげてくる問いは
幼かったときに
両親を困惑させたそれと同質。


今は、『野生のしっそう』
という本を夢中になって
でもなるべくじっくりと
読み進めているところです。

価値って、と
先ほど書いたけれど
外側に照らし合わせた
価値しか自分にも見出だせなく
なっているとしたら
そんなおそろしいことはない。

そういえば今年の冬は
大事な読書が進み
それがあまりにも大事で
わたしをまた無口にさせました。

話は飛躍しているように
思われるかもしれません。
でも、繋がっているのです。
毎日のことと、世界は。

小さな世界を満たして
自分からもっと分かち合えるように
なっていきたいと願って
この文章を終えます。


娘が描いた、「イッツアスモールワールド」の絵

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