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『純潔』


 副題 悪魔に「小」がつかない幾つかの理由

 酩酊である。
 なにに酩酊しているのか、それすらもわからぬ程の揺蕩なる心持ちである。
 けれども意識はあり、五感は未だ手放してはいない。
 その証拠に私の不細工な鼻にはこの部屋に漂う菫の香の匂いが届いていた。
 爽やかでもなく、甘くもない、麝香のようでもない。
 なにやら淫らな香りのように私は思う。もしこの世に悪魔がいるのだとしたら、悪魔の体臭とは菫香に近いのではないかと、私は推測している。
「麦酒を舐めて唸っているだけじゃあ、仕事とは言えないわ。そうでしょう、先生」
 甘ったるい声だ。けれど、男を騙す淫婦が出すような甘毒の猫なで声ではない。
 未発達な声帯からなる、ようするに子どもの声色なのだ。
「―――悪かった。つい、久しぶりだったものだから」
 麦酒が注がれた硝子のコップを握って揺蕩の旅に出ていた私は我に返った。
 コップの麦酒は注いだ時よりも半分になっている。半分飲んだだけで、相当に酔いが回ったようだ。久々のアルコホルというものは斯様に特効するものであったのか。
 はてさて、半年ぶりの酒だ。物資貧困のこのご時世にまだ酒なる娯楽が生産され続けているのも、なんと謎めかしいことだ。私にとっては有り難いのだが。
「そもそも配給されたものをすぐに召し上がらなくてもいいじゃない。根心が卑しいわ」
「そこまで言われると傷ついてしまう」
 私をなじってくるのは、甘い声色をした子ども―――少女だ。
 私の家に押しかけてきて、私の部屋に上がり込む、この子は私の教え子なのだそうだ。
「あら先生。傷ついたのなら傷口を見せて欲しいわ」
「心の傷は見えないものさ」
「なら傷ついていないのと一緒、ね」
 まったくひどいもの言いだ。しっかりとした教育を受けてはいないのだろう。誰も彼女に倫理や道徳を教え込もうとしたことがない。
 教育機関などすっかり破綻―――いや、滅亡している。
 なにせ今やこの世界というものには、仮初の社会とそれを形だけ維持している機関が、なんとはなしに在っているだけなのだから。
 とても深刻な疫病が蔓延して久しく。
 人々はうんと減り、残った人も、もうあまり長くは生きていけないのだろう。かつての社会を取り戻すことが出来ないのだ。
 そんな中、子は世の宝。
 そう考える機関が、将来を託すに値するわずかに生き残っている子ども達を保護し育てている。
 私の部屋にいる彼女もそうだ。
「琵琶子」
 名を呼ぶと、彼女は目尻のつんと吊った眼で私を見る。返事はしない。
 琵琶子は文机に両肘をついて前かがみになり、丸いお尻を持ち上げて私のことを覗き込む。
 彼女の仕草を見ていると、なんだか丸々と太った黒猫の姿が頭をよぎる。
 毛艶のよい黒毛、ひくひくと動く鼻先、じっと見つめてくる目には好奇心だけが詰まっている。それに足元はいつも素足で靴下なんか履かせようとすれば、ひどく暴れる。
 そして至るところが豊満だ。福々しい。贅肉が有り余っている。
 身長145センチ、体重60キロ。
 機関より受け渡された琵琶子の最近の値である。
 彼女の四肢に、胴に胸に、しっかりと栄養が行き渡っている証拠を示す値と言える。
 健康面は心配せずともよいと判断する。
  そもそも私は彼女の健康を気遣う医師のような立場の人間ではないのだ。
「課題はやってきたのかい、琵琶子」
 麦酒を手放し問うと、琵琶子は不思議そうに首を捻った。
「課題? なにかしらそれ?」
 いけしゃあしゃあと言われ、私は手放したはずの麦酒を口へと運んだ。
 よいのだ。
 彼女が私の与えた課題をやろうとやるまいと、言うことをきこうときくまいと、どうでもよい。
 彼女が一週間に一度この書物と塵芥にまみれた狭い我が私宅を訪れ、私が彼女に何がしかを教えているという体裁が整えばよいのだ。
 そうすれば、機関より配給を受け取れる。普通の生活をしていては受け取れぬような豪華な配給。たとえばこの麦酒のような。今回は物資調達がよほどうまくいったのか、私の元には麦酒一樽と清酒二本、それ以外にも食材が多々送られてきた。
 文字通りうまい仕事だ。
「課題をやらなくとも君がなにかを書き上げられればよいのだけれどね」
 ぐびりと喉を流れる麦酒は黄金の味がする。瑞々しい蠱毒。
「いつか書けるわ、きっとね。私、傑作を生み出せる気がするの」
「それは良い。期待している」
 彼女が傑作を書き上げる頃には、読者はどれだけ残っていよう。
 そんなことを考えると胸の内が荒涼たる気で満たされてしまう。それは駄目なのだ。胸の内はアルコホルで満たされていなければ。
 琵琶子、この子は小説家になりたいのだという。
 だから週に一度、私の家を訪れ小説の作法を習っている。ということになっている。
 琵琶子は終始かように気まぐれで嘘つきで、飽き性なので学ぶということをまるでしないので私は琵琶子になにも教えられてはいないのだが、別段私はそれでも良いと思っている。
 成るものは勝手に成るもので、教えられて成るものではない。万事がそうである。
 ちなみに私はもうずっと以前に小説家として活動していたこともあるが、いわゆる三文小説家というやつで、著書というのも数冊程度だ。人生において小説家という活動をしていた期間はうんと短い。
 それでもそんな私が、小説家を目指す少女の教師役として見いだされたのは、琵琶子が移動できる地区間において「小説家を育成できる者」という素質を有する存在が私しかいなかったという、単純な理由に過ぎない。
 それほどまでに人材がいないのであろう。悲観よりもむしろ諦観すべき事柄だ。
「傑作というのは後世になって評価される場合もあるね。つまりは私の本のことなのだが」
「あら、私、先生の本を読んだわ。ひどく単純で、ひどく平凡だったのだけれど。いつの世になればあれが傑作として評価されるのかしら」
「君は小説術などではなく歯に衣着せる術を学んだほうがよい。これ以上、被害者を増やさぬうちにな」
 他愛もなく、心乱される会話をしているだけも時間は進む。
 私は部屋の隅で微香を上げる線香を一瞥した。
 菫の香りのする線香はもう三分の一ほどになっていた。
 あの香が燃え尽きる時が、私と琵琶子、二人の時間の終わりである。
 琵琶子が部屋を訪れると同時に、彼女は持参した一本の香に火を着け、それが燃え終わるとすなわち授業の終わりとなる。
 最初に彼女が僕の元を訪れた際に、そう決めたのだ。あらゆる約束を守らない琵琶子だが、一本の香の決め事だけは未だ守り続けている。
 菫の香は、いつも同じ長さのはずなのに、燃え方が悪ければ三時間以上燃え、早い時は一時間もかからず燃え尽きる。
 私達の授業は時折長く、時折短く、その時々によって長さが変わる。
 常に決まりきったことなどこの部屋にはないのだと象徴しているかのように。
「酒だけだと酔いが早い。さすがに琵琶子の前で酔いつぶれたくはないな」
「あらあの時は酔いつぶれていたわ。また先生の醜態を見てみたくってよ」
「私は忘れることにした。君も忘れなさい」
 忘却は、人類の救いである。
 くすくすと私の顔を見て笑う琵琶子はそうは思わぬようである。
「これ以上酔わない為にも、つまみを作ろう。どうだい、琵琶子。一緒に作らないか?」
「嫌よ、料理なんて。危なくって。でも先生が料理をしているところは見たいわ。それに作ったものも」
「もちろん、君にもごちそうするよ」
「それでなにを作るの?」
「そうだな……配給されたものから考えつくに―――鮭フライなど、どうだろう?」
「賛成!」
 福々しい黒猫のお腹がぐぅと鳴いた。

 今年は鮭が沢山採れたのだと、配給係の人間が言っていた。
 人が減ると、それ以外の生き物が軒並み増加しているのだという。生命の数というものが決まっていて人間が減った分、他の生き物で帳尻を合わせているという暴論を、どこかの学者がのたまっていた。そうであるならば傑作だ。常に世はこともなし、ということになる。
 さて私は生命の辻褄合わせで増えたらしい鮭の恩恵に預かるとしよう。
 鮭フライである。
 作り方―――というほど、大仰な料理でもない。
 薄力粉まみれにした一口大の鮭の切り身を、溶き卵にくぐらせ、パン粉をまぶし、熱した油で揚げる。
 ただこれだけのことである。
 大凡フライと呼ぶものは大抵この作り方で完成する。
 そしてフライの良いところは、あらゆる食材で応用が効き、揚げるとなんとはなしに食べ物としての体裁が整うことである。
 困ったら揚げろ、これは人生哲学といえる。
「よいか琵琶子。鮭フライで一番の大仕事は下ごしらえをするところにある。この一口大に切った鮭の切り身を見てごらん」
 銀の盆に並べた切り身を琵琶子へと見せると、琵琶子は気味悪そうに切り身を指先でぐにぐにと突っついた。
「生き物の死骸って嫌だわ。気味が悪い」
 琵琶子は台所に立つ私の隣で木でできた質素な椅子に腰掛けていた。
 台所は狭い。二畳ほどの空間に流し台とコンロがあるだけだ。コンロは一口。必要最低限。私は日頃さして料理はしないのでこれで良い。
「そう生き物の死骸だ。未だ新鮮で、食べられる死骸。そして死骸には皮と肉と、他になにが残っていると思う?」
「骨」
「そうだとも。骨だ。鮭の切り身には骨がある。それを懇切丁寧に毛抜きを使って取り除く。それが鮭フライを最も美味とする下ごしらえなのだよ」
 私は毛抜きで切り身から骨を抜き取っていく。この作業をしなければ、フライにかじりついた途端に不愉快な食感が口を襲う。まったくもって我慢ならん、なぜ魚は骨を有する生き物なのであろう。骨などよりも体内にポン酢袋や醤油袋といった調味液の入った器官を有した方がよほど有益であろう。
「お刺身用に切り分けられた魚を使えば、最初から骨はなくってよ? それをフライにすればよいじゃない」
「恐ろしいほどの贅沢を考えつくものだね、君は。刺身用の魚は刺し身で食したまえ。それが食材にとっての礼儀というものだ」
「死骸に礼儀なんて必要ないわ。それに私は生のお魚は大嫌い」
「奇遇だな、私もだ。だから揚げる。火を通すことは死骸を料理へと昇華させる儀式なのだ」
 大層な妄言を吐いてみたが、要するにおいしい状態で食べたいからである。
 骨を懸命に取り除き、前述した工程を経たものを油に投入する。放り込むと油が飛び散って、琵琶子の皮膚にでもかかろうものなら大事なので慎重に、ゆっくりと入れる。
「このようにきつね色に揚がったら食べ頃だ」
 箸で掴んで上げてみると、立派な鮭フライが出来上がっていた。
「きつね色って、いつのどんな狐の色? 冬? 夏? 国産? 外国産?」
「その議論については甚だ興味深いがね、どうだいここは出来たての鮭フライを食すことに熱心になってはみないかな」
「賛成!」
 口数の多いくいしん坊を黙らせるなら食べ物を与えるに限る。

 自室へと戻る、手間はない。
 なにせ六畳ほどの狭い自室と、二畳の台所は同じ空間にあるのだから。私は熱した油の匂い漂う自室の文机の上に、こんがり揚がった鮭フライを並べて皿を置いた。
 麦酒は、さらに追加する。
 麦酒を美味しく飲む為に鮭フライが存在する。
 林檎が正しく地面に着地する為に重力が存在するのと同義だ。いや、そうだらうか?
「いただきます」
 琵琶子が私よりも先に鮭フライを食べようとしている。しかし待つのだ。
「鮭フライには醤油をかけるとさらにうまい。かけてあげよう」
 私はためらいなくフライに醤油をかけた。ウスターソースをかける方が美味しいという意見もある。タルタルソースをかけるのもまた良いとも言えるかもしれない。
 しかし私は醤油に限る。フライに限らず、醤油と鮭の組み合わせは至高なのだ。おそらく醤油と鮭は前世では夫婦か、そうでないならば比翼の鳥のごとき間柄であったはずだ。でなければ斯様にうまい組み合わせにはなるまい。
「ほら、食するぞ琵琶子」
「えぇ、もちろん」
 かぶりつく。さくさくして、熱い。さっきまで熱した油の中を泳いでいた魚だ。熱くないわけがない。口内に焼けぼっくりでも放り込まれたのかと錯覚する。いや、熱い。ばかに熱い。
 しかしてうまい。
 熱さとはうまさ、なのだろうか。
 灼熱の衣と猛熱の身。揚がった鮭の身は雲を一掴みしたかのようなふわふわの食感である。そこに醤油から与えられたしょっぱさが加わり至上の美味と化している。
 本当にこの世の食べ物だろうか。美味しすぎて、神仙の美食ではないのかと疑いたくなる。もしこの世に竜宮城があるのなら、そこで饗される食事とは鮭フライに違いない。竜宮のある海底一万哩に揚げ物用の食用油があればの話だが。
「あふい。あふい」
 琵琶子も口をわなわなさせて高熱の美味を堪能している。
 こういう時、琵琶子は両のほっぺたが真っ赤に染まる。
 それは食した料理に対して琵琶子が評価をつけているかのようだ。真っ赤なほっぺたがまん丸だ。評価は花丸。合格点だったのかもしれない。
「そして私には麦酒もある」
 熱で爛れた口の中を癒やすのは清涼なる麦酒の救いしかない。
 ぐびりと麦酒を流し込み、鮭は黄金の河へと押し流される。流れ流れて我が胃袋へ、泳ぎ着くがよかろう。
「私は一切れでもう充分だ。琵琶子、残りは君がお食べ」
「もちろんそのつもりよ。ぜんぶぜんぶ、独り占めなんだから」
 真っ赤なほっぺたが、膨らんだり萎んだり。
 そもそも琵琶子のほっぺたはいつだってぷくぷくとして、いつかこぼれて落ちてしまいそうだ。
 琵琶子が鮭フライを頬張る様をつまみとし、私はまだまだ酩酊してみるつもりだ。
 小説教室の教師と生徒、師匠と弟子。
 そんな関係を私は琵琶子と築けやしない。彼女が筆を持つ日はまだまだ先のようだから。
 それならと、筆の代わりに箸を持たせようと、そう思う。
 疫病が蔓延するこの世界で、肉付きのよい子どもに比べ肉付きの悪い子どもの方が、疫病への感染率が高い。琵琶子を保護する機関の持論であり、私は機関より琵琶子を肥えさせるよう指示を受けている。
 医学的根拠は薄いと聞いたことがあるその論だが、けれどもしそれが迷信の類だとしてもだ。
 私は、衰退するこの世界に居て、福々しく丸みを帯び続ける琵琶子を愛で続けたいとそう思う。
「揚げ物っておいしい!」
 琵琶子がこの世の真実に気づいている。
 豊満たれ、琵琶子。
 美味たる万事すべては君の為にあるのだから。
 

                          おしまい

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