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評価が日本の学校を殺している

 学習指導要領が掲げた目標は、人生や生活に役立つ力を高めるための目標であって、それを目指して、長い時間をかけて、その方面の力を高めたいという趣旨の目標であると思う。そう思えば、学習指導要領はなかなかよくできていると思われる。
 ところが、昨今では、学習指導要領が示した目標の一つ一つを確実に達成させようとして、目標ごとに評価尺度を作り、その規準に達することを目指して評価することが、全国的に行われている。その結果、学習指導要領の趣旨とは裏腹の、不都合な事が起きている。それはどういうことか?私は次の4点を考えている。
 1. 学習と指導を評価規準が管理してしまう。もう少し詳しく言うと次のようになる。本来、生きる力を高めるための目標であったはずの学習と指導が、目の前に示された評価規準を達成したかどうかを測定するためのルーブリック評価表やペーパーストでよりよい評価を得るための学習と指導にすり替わってしまう。結果として、目前の評価規準に合わせた学びと指導という、近視眼的でゆとりのない学びと指導になってしまう。
 2. 全員を共通の評価尺度で評価して、C(不十分)、B(十分)、A(十分を超えている)にランク分けして、C判定を受けた子に対して特訓しても、その子がB判定になるという保証はない。A判定を受けた子には、それ以上指導する必要がなくなる。
 3. ランク分け評価の結果として残るのは、ABCにランク分けされたという事実だけであり、Cの子は自分の不十分を思い知らされ、Bの子はAではなかったことを不満に思う。Bの子もCの子も、いずれも有能感や自己肯定感が高まらない。Aの子は自分が標準以上に優秀であると知らされて、優越感を増幅させるであろう。その結果がもたらすものは、優劣や競争のためにさらに学ぼうという気持ちの増幅である。優劣や競争がもたらすものは安心ではなく、不安とゆとりのなさである。それは、自らの生活や人生のために自ら学ぶというや姿勢からは程遠い。
 4. 学習指導要領が一般的な方向を示していてゆるやかなのに、その指導事項の一つ一つを評価規準に書き換えたとたんに、それが学習と指導を管理する物差しになってしまう。そんな評価規準を子供に作らせて、評価に子どもを参加させようとする試みもあるが、それは子供の主体的な学習を促すものではなく、子供に管理教育の下請けをさせることになってしまう。
 学習指導要領が本来目指しているのは、生活や人生のための学習である。と私は考えている。
 学習指導要領の目標を達成することをより確実にしようとして行う評価(目標準拠の評価規準による評価)が、その本来のおおらかな趣旨(とは私の見方ではあるが)とは裏腹に、学校に近視眼的でゆとりのない雰囲気をもたらしている。
 指導要領準拠の評価規準が、子供を管理して苦しめ、教師を管理して苦しめる役割を果たしてしまっている。そういう現状が、今の日本の学校にある。と私には見える。
 その落とし穴に早く気付いて、評価漬けの現状から抜け出さないと、日本の学校は死んでしまう。
 学校が、子供一人一人の人生のために学ぶ場になってほしい。そうなれば、学校は、子供にとっても教師にとっても、今よりはるかに居やすくて、働き甲斐のある場になる。と私は思う。

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