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日本的霊性の証明 / 「November Steps」 武満徹 クラシック音楽

日本的霊性

ある日のこと。近所の神社を通りかかると、子供達が遊んでいる。

しばらくその様子を微笑ましくみていた。と、その中のある子が、こう言うのが聞こえてきた。

「あー、そんなことしたら、いけないんだよ。バチが当たるって言ってたよー」

仲間内の誰かが本殿か、手水場から何かにいたずらをしようとしたのだろうか。

ふと思った。 

小さい子にも、神社や神社の中にある場所は、聖なるものと認識されているのだと。

振り返れば、自分自身も幼少期、神社はおろか、何気なくたっている木にも何か神秘的なものを感じることがあった。

世の森羅万象、自然への畏怖。つまり日本人的な霊性は、いつから芽生えたのか。。

そんなことを考えた。

そうしたら、頭の中に、この音が流れてきた。

武満徹作曲、ノヴェンバー・ステップスが。


日本的文化とクラシック

Wikipediaによると、クラシックという言葉は、

クラシック (英: classic) は、「階級」を表すラテン語「class(クラス)」に由来し、「最高クラスの」=「一流の」という意味であるが、ここから転じて「古典」、「格式のある」の意でも用いられる[1]。
クラシック音楽(クラシックおんがく、(英: classical music、独: Klassische Musik 、仏: musique classique、伊: musica classica)は、直訳すると「古典音楽(こてんおんがく)」となるが、一般には西洋の芸術音楽を指す[1]。宗教音楽、世俗音楽のどちらにも用いられる。

ということになり、実は西洋の音楽を指す言葉である。

例えるなら、「民謡というのは、日本の地域伝承歌の事を指す」のと同じ。

この日本とは異なる地の文化の歴史の中で生まれ、発展してきたクラシック音楽を、ここ日本で、このクラシックという枠組みの中で、再構築するのは、おそらくとても骨が折れる作業なんだろうと想像できる。

そういう枠組みへの挑戦をした作曲家には、黛敏郎さん、芥川也寸志さん、團伊玖磨さん、冨田勲さん、そして武満徹さんらがいる。

黛敏郎さんの「涅槃交響曲」は、仏教の余韻を残す声明というものを取り入れた男声合唱もあり、映像でしか見たことがないのだが、とても厳かで神秘的な印象を感じさせるものだった。

冨田勲さんのシンセもそう、、、日本の作曲家の曲はどことなく、神秘的な響きがある。

確かに存在しているが目には見えない。そういったものに手を伸ばそうとする試みのような。

森羅万象に神を見出す

人類が生み出した宗教の最も原基的形態は、自然の森羅万象のなかに精霊の働きを見出すもの=アニミズムだった(タイラー、1962)。

これは、たとえば写真家の星野道夫さんの書籍にあるように、太古の昔、アラスカの先住民族も、同じように大いなる自然の中に精霊を感じとっていて、自然に一定の畏怖を持っていたことがわかる。

こういった、自然(みえないもの、見えない世界)への畏怖、敬意を持つことを霊性(スピリチュアリティ)をもつという風に表現されることもあるようだ。

日本でも、山岳信仰など同じ傾向がある。

柳田國男(やなぎたくにお)は山から麓へと去来する神に祖霊の影を見出し(柳田、1990)、折口信夫(おりくちしのぶ)は季節の変わり目に異界から来訪する神を「まれびと」と命名した(折口、2003)。

そして、その見えない存在=大いなる存在=サムシンググレート=神は、異界に存在していると、我々の祖先は意識していた。

祭事の際に、いわゆる「降りてくる」という状況が生まれ、その「降りてきた」神を祭るための準備をしていたのだろう。

人類がカミの働きを見出したもう一つの対象は、人間のもちえないパワーを有する動物たちだった。

そして森羅万象のほか、人知を超えたパワーを持つ動物たちをも神格化していった。

星野道夫さんが後年、その由来(ルーツ)を解き明かすためにシベリアに向かったのも、この動物の神話だった。それは、世界の神話に共通するようとして、ワタリガラスの神話があることを知ったから。

それは、「太古の昔には闇があった、その闇に光をもたらしたのはワタリガラスの命がけの行動によるものだった」というような内容。

アイヌ民族にとっては熊がその対象だし、(アラスカ先住民もそう)、ある民族では狼がそれにあたるのかもしれない。

そう考えてくると映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」の狼は、何を意味していたのかが分かるような気がしてくる。

祭祀が開始されるには、無数にあってそのイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実体としていったん同定する必要があった。超越的存在が、目に見える形をとって表現されなければならなかったのである。

そして、偶像化が始まった。見えないものを見えるものとして認識するために。そして、同じ部族間、集落での神に対するイメージを共通のものにするために。

それは時折、人間を越えたような形もあるわけで、おそらくは動物たちや人知を超えた天変地異や自然現象への畏怖を、その偶像の形に込めたからだろうか。

これは聖なるものが可視的に表示され、そのイメージが共同体の構成員によって共有されていく現象を示している。カミが同定され、崇拝の儀礼が形を整えていく。宗教の発生である。

そして、自然への畏怖からの霊性、動物たちの畏怖からの神話の誕生、祭事での神の祀り、そして偶像化を経て、宗教というものが発生していく。

これは日本では神道があったわけだが、これに加わって大陸由来の仏教が大きな精神的な力となる。

神を祀る神社、仏を祀る寺。

ユニークな日本の構図がここに出来上がることになった。

武満徹の悩み、西洋と日本の「違い」

この点、「ららら♪クラシック」がとても分かりやすく、引用すると、

洋楽、西洋ではノイズとされる倍音などを持ち味とする邦楽、西洋と日本の音楽性の違いに悩み、行き詰まってゆく。窮地を救ったのは、滞在中の山里に鳴り響いていた“村の有線放送”だった。風や鳥のさえずり、決してお互いを損ない合う事なく響きあう自然の音と放送の音。そうした環境音を聴くことで、それぞれが独自に存在しながら共存もする、これまでに無い新たな発想の協奏曲を完成させていく。

特に、なるほどと思うのは、

風や鳥のさえずり、決してお互いを損ない合う事なく響きあう自然の音と放送の音。そうした環境音を聴くことで、それぞれが独自に存在しながら共存もする、これまでに無い新たな発想の協奏曲

というくだり。西洋的な音階の中に何かを見出すのではなく。その枠を、日本的な森羅万象の大いなる自然をもってして、越えていく。その具現化の一つが、クラシックに琵琶と尺八を取り入れたこと。

「むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」(『武満徹全集 第1巻 管弦楽曲』小学館)

ただ、このように、異質なものは、受け入れられにくい環境ではあったようで。確かに西洋の音楽からすると、東洋の音楽は異質。とくに琵琶と尺八は、もろに日本の楽器だから。

“ニューヨーク・フィルの連中は、気位が高く、特に現代曲にはつらくあたる”との前評判、心配はリハーサルの初日、見事に的中する。琵琶・尺八を演奏する名人2人が羽織袴の正装で、深々とお辞儀をしたその時―。オーケストラのメンバーが笑い出したのだ。武満は悲しみ、小澤は怒った。尺八・横山勝也は“本当に命がけでした”と当時を語る。若き音楽家たちの未来、名人が背負う数百年の伝統、日本音楽界のこれまでと、これから、その真価が問われる初演の幕が上がったー(ららら♪クラシックより)

初演の指揮は小澤征爾。初演の幕があがる。

1967(昭和42)年11月9日、作曲家の武満徹(当時37歳)による琵琶、尺八とオーケストラのための作品「ノヴェンバー・ステップス」が、米ニューヨークで初演された。これはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の創立125周年の記念作品として、武満に委嘱されたもの。初演は、小澤征爾が指揮するニューヨーク・フィルと、鶴田錦史の琵琶、横山勝也の尺八により、同楽団の本拠地であるフィルハーモニック・ホール(現デイヴィッド・ゲフィン・ホール)で催された。

小澤はこの曲を以下のようにして、楽団員に訴えかけていった。そして反発を解消していったらしい。

そこには、日本人としての、西洋音楽に挑戦する日本人としての矜持があったことでしょう。

小澤征爾は、琵琶と尺八だけが演奏するパートを楽員たちに集中して聴かせることで、反発を解消する(小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』音楽之友社)。結果、初演は大成功に終わり、カーテンコールが何度も続いた。その夜、武満はウエストサイドを一人で歩きながら、琵琶と尺八を採り入れたことは間違いではなかったと確信したという。「ノヴェンバー・ステップス」はその後、各国で演奏され(日本初演は翌68年6月)、武満の名は世界に知られるようになる。

演奏は大成功に終わる。この後に、武満さんがウエストサイドを歩きながら回想するというくだりを読むと、彼の万感の思いが想像できて、はるか50年以上前に行われたこの挑戦の意義を感じる。

ノヴェンバー・ステップス

改めて聞いてみて思うのは、日本的な空間。

土間があり、天井が高く、奥行きのある世界観。それは、周囲の自然と一体となった世界観。

我々の祖先は、高い天井の片隅に、深夜の土間に、闇の中にそびえる山脈に、それぞれ何か特別な存在を見出していたことでしょう。

広い空間。そう、、その空間のイメージをこの曲を聴いていると感じる。

北海道の田舎街。昼も外に出てみれば、車もなく、鳥のさえずり、川のせせらぎ、木々が触れ合う音、、そしてその中を土を踏みしめて歩く自分がたてる物音。それしかしない世界。人工的(電子的)な音のない世界。

その感覚が沸き起こってくる。

おそらく、たとえ東京生まれ東京育ちでも、日本人であればだれもが感じることができるこの感覚、世界観(たとえば、となりのトトロの懐かしさは、日本人ならば誰もが持っていることでしょう)。

それがこの楽曲とともに、醸し出されてくる。

もしかするとこの曲は、武満さんなりの、日本的霊性の証明なのかもしれない。

秋が深まりつつある11月に。




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