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北海道&横浜、イントネーションと方言についての一考察 〜 「大空と大地の中で」 松山千春。 地域性✖︎音楽


イントネーション、方言

それは、それなりに独自性の高い言語構成を持つ地方出身者に特有の事象であり、いわば普通の日常の事でもある。

ただ、ひとたび、大空と大地の中にいた地方出身者が、「都会」を訪れたとき面白い現象が起きる。

今回はそれについて綴ってみたい。

イントネーション、方言への意識の芽生え

そう、、あれは、高校の修学旅行。

田舎町の高校だった青年は、さだまさしさんの曲を借りるならば「昨日、京、奈良、飛鳥明後日(きのうきょうなら、あすかあさって)」という感覚で関西を旅した。

田舎というのは、何もない。
たしかに何もないのだが、実は何かがある。
それは、畑であり、河川敷であり、広い公園であり。

つまり、圧倒的な自然を活かすように、人工的に形成されたものに囲まれている場所なのである。

京都、奈良も、その背景の圧倒的な日本的自然感の中に調和するように、寺社が構築されていて、そこにたたずんでいるだけで、すべてが調和した世界の中に溶け込むような感覚になる。

そのように日本的な詫び寂びを感じ、薬師寺のお坊さんの面白い講話を聴き、谷村新司さんの曲を借りるならば「昨日今日明日、変わりゆく私」のような感覚で、自分の中の何かが変わりゆくのを感じていた。

このあたりのくだりは、別の記事にて書いていきたいと思う。

さて、その後訪れたのは、長渕剛さんの曲を借りるならば「花の都大東京」だった。東京で回るコースは、「何かがドカーンと存在していて、その何かの主張がとても激しい」場所が多かった。修学旅行だから、必然的にそうなるのだが。
(その最たるものはディズニーランド。)

さて、70年代のフォークデュオの歌詞を借りるならば、「東京へはもう何度も行きましたね」と言いたかった。東京へは物心ついてからはこの修学旅行で3回目である。しかし、過去2回は家族旅行で親について歩いていただけ。自分で「花の都」の進路を切り開いていくのは初の体験だった。

地図を片手に地下鉄に乗り、渋谷や新宿の繁華街を友人と歩いていて、ある感情が沸き起こってきた。これは地方出身者が、否が応でも遭遇する感情なのかもしれない。

それは、イントネーションと方言への相対的な気づきである。あまりにも異質な大都会との対比によって、自分たちの持つ言葉の独自性が浮きあがってきた。

あれは友人の言葉がきっかけだったのかもしれない。田舎から来た高校生集団は方言について自虐的な会話を始めていたのだ。青年たちは「花の都大東京」に飲み込まれていたかもしれない。

今でこそ、「地方バンザイ」、「方言バンザイ!」だが、当時は、ちびまる子ちゃんのように顔に縦じまが走るような気持ちが強かったかもしれない。

いわゆるひとつの、自虐史観のようなもの。思い込み症候群である。複雑系システムがコンプレックスモードで再起動したかのような。

そんなマインドに支配されて、「花の都」は憧れから畏怖すべき対象になった。

まあ、今から見れば、大したことがない話なのだが、地方の高校生にとってダサいというのは、中々に重要な課題だったのだ。

所感でいうならば、地方が都市部を見つめる視点のベースにはこの種のマインドがあって、完全な地方創生のポイントでもあると思う。

比較や、その結果からの相対化から生まれるこのマインドは割と根強く残り、青年は、しばらく、これに苛まれるのだが。

イントネーション、方言の例

では、ここで、その多様性にあふれた言葉を紹介しよう。北海道では、以下のような人情味あふれる独特の言葉がある。北海道の地域によって多少違うかもしれないが、出身者は共感いただけるものと思う。

【方言用語の基礎知識、方言の標準語対比表】
・取り替える:バクる(取り替えっこしよう!は、バクりっこしよう!となる。)

・捨てる:投げる
(ボールを投げるなどの投げるは、そのまま「投げる」)

・いじる:ちょうす(「ちょす」に近いか。)
(人のものちょーすなー!とか)

・すごい:なまら、だで
・つらい:こわい、ゆるくない
・バカ:はんかくさい
・そうしたら:したっけ
・大丈夫だよ:なんも
・浸す:うるかす
・大変だ:わや
・冷たい:しゃっこい
・寒い:しばれる
・ちょうど(お釣りが無いなど):ちょっきり
・ばんそうこ:サビオ
・じゃ、また:したっけ。

試される大地を彩る珠玉の言葉たちである。

【語尾用語の基礎知識、語尾一覧】
・「けや」:〇〇だっけや
・「でや」:〇〇だでや
・「べや」:〇〇だべや
・「~こ」:子っこ、棒っこ(ぼっこ)

粗野な感じが荒れ地を開拓した開拓民の魂のようで微笑ましい。

【組み合わせ活用文の例】
野球中継を見ての団欒の風景
「あれだっけさ、〇〇、4番なのに、打率なまら低いっけや。」
「いつも、だで打ってたっけ、たまたまなんでねえか。」
「んなことね、今日は打ってねえべや。」
山菜取りから帰ったとき
「いやー、なまらたくさんとれたっけ、ゆるくねえでや」
「だで取れたっけ、よかったっしょ。」
「うるかしておいて、明日食うべかね。」
子供が子供同士で、馬鹿にし合うことば
「はんかくせー、とろくせー、びーたびーたー」

どうだろうか。暖かい家庭が目に浮かぶようではないか。

青年たちは、自分たちを「花の都」と相対化した結果、言葉の独自性を実感して旅から帰ったのだった。

方言と、イントネーション、実感と体感

歌謡曲の名曲を参考にすると「ブルーライト輝く街、横浜」「黄昏の街、ヨコハマ」「ヨーコのいた街、港ヨコハマ」での生活が始まってから気が付いたことがたくさんあった。

イントネーションの違いが具現化されて、目の前に立ち現れたのだ。

【現代イントネーションの基礎知識:名字、地名、愛称編】
・上野:「う」に力点を置くか、フラットに発音するか。個人的にはフラット派だった。

・藤田:「ふ」に力点を置くか、フラットに発音するか。個人的にはフラット派だった。

・港南中央:「こ」に力点を置くか、フラットに発音するか。個人的には「こ」に力点派。

・椅子:「い」に力点を置くか、フラットに発音するか。個人的には「い」に力点派。

・女性の愛称「めい」:「め」に力点を置くトトロタイプか、フラットか。個人的には「め」に力点派。

・女性の名称「まーちゃん」:「まー」に力点を置くか、フラットか。個人的には「ま」に力点派

・固有名詞「マウジー」:「マ」に力点を置くか、フラットか。個人的には「マ」に力点派

どうだろうか

地方出身者は、否応なく都市部在住者のコミュニケーション上の引っかかりに直面したのだった。

青年期特有の反逆精神から、心の中では「地元バンザイ」を三唱していた。染まらないぞと。

さて、そんな日から割とすぐのゴールデンウィーク。さみしさを抱え実家に帰った青年は衝撃的な言葉を耳にするのだった。

家族より「あれ、なんか内地風の言葉になったんでないかい」

衝撃である。
地元バンザイを三唱していたのにも関わらず、染まりかけていたのだ。

その後、それなりの出会いを経て、夏休みに帰省するころには、完全に言語的に同化していた。

心の声が囁く。
「どうかしてしまったんだべか」

青年は高校時代に自分の地域の言葉を相対化しており、独自性を認識していたがゆえにこの境地になったが、おそらくそうでない場合は、自然に現地の言葉になじんで、何の疑問も抱かなかったことだろう。

それが関東でなかったしても。

この言語適応能力については、大学初年度の思い出として色濃く残っている。

しかしだ。それはつまり、北海道民がすべて東京に移住したとしたら、あの独自性が消えてしまう可能性があるという事なのかもしれない。。。。歴史の蜃気楼の中に消えていった無数の言語たちはこのようにして消滅していったのかもしれない。。

という示唆を含んでこの記事を終えることにしたい。

したっけ。


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