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「名言との対話」12月31日。倉本聰「神様が書かせてくれている間は書きつづけたいですね」

倉本 聰(くらもと そう、1934年12月31日 - )は、日本の脚本家・劇作家・演出家。

3浪して東大文学部に入学し、美学科で学ぶ。24歳、ニッポン放送入社。28歳、退社しシナリオ作家として独立。30歳『青春とはなんだ』、31歳『これが青春だ』。42歳、北海道の富良野に移住。46歳の『北の国から』は、67歳の『北の国から 2002遺言』まで続く国民ドラマとなった。82歳、『やすらぎの郷』、84歳、『やすらぎの刻ー道』。

倉本聰はテレビドラマ界の巨人である。数え上げればきりがないほど、この人のつくったテレビドラマを私も楽しんでいる。その秘密に迫った後輩のインタビュー本、倉本聰・碓井広義『ドラマへの遺言』(新潮新書)を読んだ。実家の屋号の「蔵元」と、妹の名の「聰子」を組みあわせて、倉本聰というペンネームができあがった。

「生涯に一本、映画化されるシナリオを書きたい」という控えめな志から出発している。まずは脚本の職人になろうとし、どんな注文も請け負ったが、一点だけ、短編小説の核みたいなものは入れていこうと決意する。そして成功する。

この巨人のテレビドラマ観を聴こう。

「倉本脚本は一言一句変えてはならない」という伝説がある。それは「語尾を勝手に変えられると人格が変わってしまうんですよ」という趣旨からだ。。

「映画はドラマだけど、テレビはチックが大事だ」。ドラマチックとは、「細かなニュアンスを面白く描くのが神髄じゃないかな」と説明している。

「ドラマっていうのはキャラクターとキャラクターのぶつかり合いの化学反応なんだ」

倉本聰は49歳で富良野塾という、脚本家や俳優の養成塾を開いた。75歳で閉塾するまでの26年間で380名が学んでいる。この塾は2年間は授業料は無料、地元農家を手伝うことで生活費を稼ぐというスタイルだったのはユニークだ。

倉本聰は「これが最後という覚悟がいい仕事を生む」という決意のとおり、優れた作品を作り続けている。私は若い頃は「青春もの」をよくみたが、最近では『やすらぎの郷』という意表をついたドラマを楽しんだ。

「数えきれないほど書いてきて、まだ書きたいことが山ほどある。それってずいぶん幸せな物書き人生ですよ」と生涯を総括しているのだが、「神様が書かせてくれている間は書きつづけたいですね」という希望でこの本は終わっている。本日、87歳を迎えたが、この心意気ならまだまだ私たちをたのしませてくれそうだ。

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