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本も買わずに

新宿で、少し時間を持て余したので、紀伊国屋へふらりと立ち寄った。

2階の文芸のフロアに行って、文芸批評のコーナーから、何となく気になったものを何冊か手に取って、ペラペラと頁を捲ってみたのだけれども、気が乗らなくて直ぐに嫌になって止めた。

手に取った本が、別段、気に入らなかった訳ではなくて、このフロアにある膨大な数の書籍が、それぞれの作家によって、端正込められて書かれたものなんだろうな、と考えたら、急に具合が悪くなってしまったのだ。

一般的に、本は読むのに掛かる時間よりも、書くのに掛かる時間の方が長いだろうし、読者の熱量を遥かに凌ぐ熱量で、著者は本を執筆するのだろう。

そういう、時間と熱量の総和の様なものに、窒息してしまいそうだった。

タワーレコードの広々としたフロアで、CDを眺めている時には、そん風に思った事など一度もなかったのに、何故か、本屋は駄目らしい。

感覚的に聴いているものと、観念的に読んでしまうものとの違いなのか、単に、知らない作家の多さに奥手になってしまっただけなのか、自分は文学を知らない、という事に対する、後ろめたさの様なものが働いたのは確かだった様に思う。

世の中の大半の人は、世の中の大部分の人から知られる事もなく、その人の生活圏の中で、それぞれの居場所を拵えて、何とか生きている。否、しばしば平然と生きている。

本だって、ある一定数認知されさえすれば、その存在意義は果たされているに違いないけど、どの本も、そんなに慎ましやかな態度で書店に並べられてなどいないから、より多くの人に買われて、読まれる事を欲して、あの手この手で、手ぐすね引いて待ち受けている。

何か気が向いたら一冊買ってみようか、という安易な気分は、案外に、そんな策略の前に萎えたのかも知れない。

結局、上の階にある中古レコード店に行って、プラという聞き慣れないピアニストが録れた、モンポウの作品全集を買って、その1枚目を聴きながら帰って来た。

SONYももう何年も前にCDウォークマンの製造を終了しているから、今時、こんな前時代的なものを持ち歩いている人もいないから、電車の中で、CDをセットするのを、廻りの人にみられる事が、少しだけ恥ずかしかったけど、モンポウを聴きたい衝動が勝った。

モンポウの音楽は、凡そこの人に野心などないのではないか、と思わざるを得ないくらい穏やかで静謐だ。

だから、時々、不意に聴きたくなるのだけど、既に自作自演の名盤があるのだから、わざわざ、違うピアニストで買わなくても良かったかも知れない。

電車の中でいい加減に聴いた限り、この録音も素晴らしそうだ。

本から逃れて来た後ろめたさも、すっかり和らいで、家に着いてからも、そのまま聴き続けている。

考えてみれば、CDなんてものは、確かに前時代的に違いないけど、紙媒体だって、十分、前時代的なものかもな。

そもそも、文芸というもの自体が、既に過去の様式なのだろうし、ピアノ一台で音楽を奏でるなんて、余りに素朴過ぎるのかも知れない。

こんな風に、スマートフォンで雑文を打つのだって、十分、オールドファッションだ。

あの紀伊国屋の文芸のフロアの本を、全て電子化してしまえば、なんて事はない、物量から受ける無用の圧力から解放されて、作家の主張もコンパクトなものに思える気がする。

そんな事を書いてる内に、聴いていたCDが終わった。

4枚組の全集だから、残りあと3枚だ。

モンポウという人は、遺した作品の多くがピアノ独奏作品で、どの作品も寡黙であるし、長命な人であったけれども、どちらかと言うと寡作な作曲家でもある。

次のCDも続けて聴こうかと思ったけど、何となく、外で聴きたいな、と思う。

だから、聴きながら、ふらふらとまた出掛けよう。

残暑厳しい夕暮れに、モンポウの代表作『密やかな音楽』を。

この時間、井の頭公園はまだ混んでいるか知ら?

空いていたならば、ベンチにでも腰掛けて、誰か適当な作家の作品集を紐解いてみると想像する。

やっぱり、そんな適当な作家の名前など心当たりがない。

誰か、モンポウの様な文学を、教えてくれはするまいか。

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