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CD:エネスクのヴァイオリン・ソナタ

20世紀を代表する音楽家、ジョルジェ・エネスクについて端的に知ろうと思うと、大体、70分程の時間を要する。

エネスクは、ヴァイオリン・ソナタを3曲完成させていて、それを全て聴くのに、70分前後かかるからだ。

もっときちんと知りたければ、手に入るありったけの譜面を買って、全て読むといい。

それが難しければ、ありったけの録音をかき集めて全て聴けば、少しは分かるかも知れない。

端的に知る、という事は、少しよりも、当然、少ない。

遥かに、圧倒的に、少ない。

だからこそ、的を射る。

射た的しか知らずとも、外れではない。

だからこそ、闇は深く、沼は底無しと、知るべきだ。



エネスクは稀代のヴァイオリンの名人だった。

そして、卓越した作曲家でもあった。

言ってしまえば、天才、それも大才だった。

作風は、若い頃と後年とでは、全く別人と言ってもいいくらい異なる。

けれども、一貫してルーマニアの風を纏っていた。

ルーマニアの音楽は、余り土俗的ではなくって、どこか熱っぽいけど浮わついて乾いた感じがある。

実際にこの国を訪れると、中世の陰影がちらつくらしいのだけれども、音楽を聴く限りでは、地に足のついた重苦しさは余りなくて、晴れない空模様の気だるさに、浮遊感を伴っている。

エネスクの音楽も、大雑把に言えば、そんな感じだ。

若い頃の作品には、民俗色が強く、ルーマニアの唄の人情があって、速筆で多作でもあったのが、段々、能天気に才能だけで音楽を書くのが出来なくなって以後は、熱っぽい浮遊感を増しながら、やや内省的な作風に至って、不思議な言語を話す賢人、という趣きが強くなっていった。

その過程が、3つのヴァイオリン・ソナタにはよく刻まれていて、しかも、何れもが、とても聴かせる作品となっている。

交響曲や歌劇の様に、大風呂敷を拡げた感じもないし、カルテットやクインテットの様に、ひたすら彷徨する出口のなさもなく、聴きとり易い語り口で、ここから、エネスクの言葉を覚えるのは、結構、正門だと思う。

それじゃあ、誰の演奏がお薦めかと言えば、エネスクのヴァイオリン・ソナタを全曲録音している人は、決して多くないから、全曲録れている人のものなら、見つけ次第で、誰でもよい。

儀礼的に全曲に取り組む様なメイジャーな音楽でもない上に、結構な難曲と見えて、全曲ともなると、各々、相当の決意を持ってレコードを残しているから、寧ろ、生半可な気持ちで聴くならお止めなさい、と言うべきだ。

来る者を拒まず、歓待してくれる音楽でこそあれ、決して、ライトな語り口という訳でもないから、真摯に向き合ってみる気がないなら、出会わない方が、お互いに幸せだと思う。

否、いい加減に聴いて、適当に愛せれば、それが一番なのだから、やっぱり、何でもいいから、黙って聴くべし。



全く、そんな音楽だから、誰でもよかったのだけれども、今日は、マリアナ・シルブのヴァイオリンで聴いた。

一時、イ・ムジチ合奏団の長だったルーマニアのヴァイオリニスト。

ピアノは、ミハイル・サルブ。

これが最善の演奏とは言わない。けれども、エネスクの音楽を聴ける感慨は、殊に深い一枚。

3番ソナタに較べると、初期の2作は、演奏される機会が、大分、少ない。

軽い扱いを受けているのは、それだけ3番が名作だからとも言えるし、青年は未熟なものだと世間が見くびっているせいとも言えそうな音楽。

早熟な天才は長生すると苦労する。

勿論、誰もが生きるのは苦労だ。

その苦労の傷が3番ソナタでは再現なく美しくもあり、無傷な才能が神々しい1番、どこか予言めいていて奇しき2番、ヴァイオリン・ソナタには、役者が揃っている。

エネスクの音楽はモノトーンで熱っぽい。

ルーマニアは東欧だけれども、スラヴではなくラテン文明の国だからだろうか、東欧とラテンの悪いところが一端凝縮された上で、とことん昇華された様な、どことなくやるせない気高さが漂っている。

良いとこ取りじゃない美しさ。

きっと、ハイブリッドなんて柔なもんじゃない。

日本人には一番縁遠い世界かも知れないな。

そこが、エネスクの音楽の取っ付き難さじゃないかと思いつつ、同時に、ルーマニアの演奏家に、日本での人気が高い人が多い理由も見えて、益々、シルブの音色が尊く聴こえて来る。

良くも悪くも、イ・ムジチ合奏団の芸風が大きく転換したのも、時代の流れではあったけれども、彼女がトップの頃だろう。


ジョルジェ・エネスクは、演奏家として、録音をそれなりに遺しており、今でもバッハの無伴奏の評価は、時に異様な程に高い。

個人的には、あの録音は苦手だ。

寧ろ、病を患い、もう壊滅的に技巧が駄目になって演奏活動から身を退いていた最晩年に、何故か録られた、ベートーヴェンのクロイツェルが断然好い。

のっけから、びっくりするぐらい音程を外していて、指も回らない、弓も上滑り、テンポも保てない、兎に角、酷い演奏なのだけど、クロイツェル・ソナタってのは、もともとやくざな音楽なのだし、何より、一つも出鱈目な音がない。
 
才能がある人が磨耗して、後年に奇っ怪な演奏をし始めたり、始めからおかしな事をする人は沢山いるけど、ちょっと、それとは毛色が違って、駄目になったのは肉体だけで、音楽家としては、寧ろ、ピークだ。

そして、何となく、エネスクの3番ソナタに通じる音がする。

熱っぽい浮遊感、ここに極まれり。

クロイツェルと同時期に、シューマンのヴァイオリン・ソナタの第2番も録られている。

こちらは、クロイツェルよりも弾けていて、勿論、技巧は駄目なのだけれども、崩壊寸前なのはシューマンの筆の方も一緒だから、寧ろ、破綻が曲に嵌まり過ぎていて、非の打ち所が、僕には見当たらなかったな。

音楽が好きな人には、酷い演奏だろうけど、シューマンが愛しい人には、きっと、福音だ。


ここまで書いて、嘘が一つある事に気が付いた。

エネスクを端的に知るには、ベートーヴェンとシューマン、どちらかを択一としても、100分は必要だ。

70分は、尺足らず。

否、ヴィヴァルディを知るのに、当人の演奏なんて聴けないし、イ・ムジチの四季あってこそのリバイバルだっのだから、20世紀の音楽家だからと言って、演奏まで聴く義理もない。

後は、聴きたいと思う人情の有無に委ねましょう。

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