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卒業に際して

 先日、大学の卒業式を終えて、ようやく実感として、学生生活が終わり、社会の一部として働き始めることを認識した。 大学生から大学院生になると言う実感が湧いてきた。

 卒業式ではお世話になった先生方、ゼミや同じ専攻、部活など様々な形で関わった友人たちとしばしの別れを告げた。形は違えど本当に感謝している。本当にありがとう。

先生方へ


関わった人たちへ



 4年生の後半は卒論に大学院出願とラスボスクラスの強敵と対峙せねばならず、自分のちっぽけさを毎日実感していた。言ってみれば毎日頂上戦争後のルフィー状態である。


「何がイギリス大学院だ。何ひとつまともにできないのに」

 悔しさで、拳で地面を殴り、ゴムゴムの技で岩を砕くことこそなかったが、自分の至らなさを痛いほど感じて生きていた。そんな中でも支えてくれる先生方や関わった人たちのおかげで私は今日も生きている。ルフィには麦わらの一味がいたが、私には大学で得た人々とのつながり、もっと古くからのつながりがある。本当にありがたい。

 しばしの別れにはなるが、人は繋がって生きているのでこれが今生の別れとは思わない。また会う日まで。できることならビブルカードをみんなに渡したかったが、現代はインターネットとスマホとSNSがあるからまあいいか。
 ワンピースを見ていない読者がそろそろ飽きてくる頃だと思うので、本題(?)に入ろうと思う。卒業式を終えて、「通過儀礼」の重要さを認識した。人の一生は壮大な歴史に比べたら、例えようもないほど短いが、1人の人間が二本の足で踏ん張って生きていくにはあまりにも長い。そんな人生に節目を与え、老衰して死の床で人生を振り返る際に基準になり得るのが「通過儀礼」である。

 ネイティブ・アメリカンの若者は子どもから大人への通過儀礼にビジョンクエスト(Vision Quest)を行う。Questは「探検」。では、Visionはどうだろう。ふと浮かんだのは「エビデンスに基づいて、ビジョンを持った中長期計画を立てようよ。」と言う「鼻につく横文字上司」である。私はまだその実在を確認していないが、存在するのだろうか。そんなことはどうでもいいが、英語の言い回しに「Man of Vision(先見の明を持つ人)」と言うものがある。これらからVision Questを解釈すると、「未来を見通す力を身につける探検や冒険」と言う意味になる。インターネットも科学技術の利用もなかった(あるかもしれないので調べてください)時代に先を見通す見聞色の覇気スキルはそのまま生きていく力そのものに直結する。
 この通過儀礼を通過したネイティブ・アメリカンの若者は一人前として認められる。グレイトな存在として認められるのである。 非常に立派である。

 では私たちが暮らす現代社会にあって、「私は一人前だ」(ドン!)と胸張って言うことはできるのだろうか。その基準は様々だが、私にはここまで複雑になった社会で「一人前になる」と言うことは困難なように思える。中学高校大学と進学には実力主義が付きまとう。就活でも業界研究、学チカ、強み、などなどを標榜し、生きていくための糧を得るために働かねばならない。かつての一族の中での役割を果たすことが一人前の証であった時代と比べると選択肢が多すぎて、リスクもある。そんな時代である。
 だからこそ人は1人では生きていけないし、学び続ける必要があるのだ。さらに言わせてもらえるのであれば、そんな現代だからこそ、先人に学び、知識という力を身につけ、過去と現代を行き来し、未来を見据え、社会全体を見通す見聞色の覇気スキルを身につけ、磨いていくことが重要なのである。歴史を学ぶ意味もそこにある。歴史を教える教員の授業は作り込まれたものである。しかしそこから生徒たちが学び取るものは一人一人違うのだ。生徒の数だけ歴史像があり、歴史像の数だけ、現代を考える視点と未来を見通す思考が存在する。私はもう少し自らの歴史像を探究しようと思う。これもクエストである。

 読者それぞれのクエストに幸運を。

P.S 本当は『葬送のフリーレン』と中世ヨーロッパの記事を書きたかったが、逸れに逸れてこの内容になった。卒業記念としてご容赦いただきたい。


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