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ボッカチオとホットヨガ

こんにちは、“鳩”です。
今回はルネサンス期の散文家「ボッカチオ」の話をします。
いきなり本題に入るのはなぜかというと、ボッカチオが『デカメロン』の著者だからです。

『デカメロン』

デカメロン


世界史のクラスに緊張が走ります。
この講師は、あの愚かしくも下品なギャグを発するのだろうか。
生徒たちは固唾をのんで状況を見守ります。

僕は授業中に不道徳なダジャレを使うことはありません。
下品な言い回しって、時と場合によってはコミュニケーションの円滑化を図ってくれるのですが、とかく予備校の授業ではリスクが大きく、現実的ではないですよね。
どこ吹く風を装い、きちんと授業を進めます。

デカメロンときなこ

ただし笑いとは「緊張と緩和」
この緊張状態のまま授業を進めるのは、「笑いのある授業」をモットーとする僕としても心苦しいのです。

僕は生徒の顔を見回して、「もういいんだよ、大丈夫」という表情でニコっと微笑みかけます。
生徒も僕の意図を察して、ニコっと微笑んでくれます。
一体感・充足感のようなものが教室を包み込み、この危機的状況を回避した我々は何事もなく授業を進めていくのです。


『デカメロン』

鳩メロン


あぁ、この国の言語にこれほどぴったりとはまるコトバが他にあるというのでしょうか。
試しに「デカメロン」で画像の検索をしてみてください。
ねらい通りのデカメロン=サムネイルがいくつか表示されることでしょう。
情けない気持ちになると同時に、これはもう仕方のないことだという感情が胸の内にふつふつと沸いてくるのです。
だって、「デカメロン」ですよ。

僕がお世話になっている予備校の校舎は教室が8階にあって、壇上に立つと窓の外が見えるのですが、道を挟んで向かい側のビルに「ホットヨガ」の広告パネルが掲げられています。
その女性モデルが、すなわち「デカメロン」なわけです。

彼女はヒザをついて上体をそり、うでを頭の上でクロスさせ、体躯を弓のようにカーブさせている。
灰がかったレギンスと真紅のタンクトップは、まわりの蒸気を吸いあげてところどころ汗ばんでいるようだ。
頬は紅潮し、唇は湿気をまとって、少しあがった口角が優しい微笑みをたずさえる。

まるで、恐ろしく透明な湖水に浮かぶ一艘の小舟だ。
僕は舟に寝ころび、空へ手をのばしてまだらの雲をつかもうとする。
手は届きそうで届かない。
心地よい風が頬をなで、船は湖上で静かに揺らいでいる。

けれど、彼女のまなざしはどこか挑戦的で、僕をすこぶる居心地の悪い気分にさせた。
本当に、ここにいていいのだろうか。
僕があるべき場所はもっとほかに存在するのではないか。
何かが損なわれているのだ。


あぁ、いけない!
やつの魔性に惑わされるところでした。

「お前はそんなことを考えながら授業しているのか、けしからんやつだ!」と指摘されると、僕としても立つ瀬がないのですが、もちろん授業はマジメに行います。
しかし、「神聖ローマ帝国における領邦諸侯の分裂と自由都市の形成」なんていうテーマを話し終えたあと卓上に手をついて一息つき、コップの水を少し口に含んでふと顔をあげれば、デカメロンと目が合ってまったくいわれのない挑発行為を受けるのです。
屈辱です。
こんなデカメロンは全然うれしくない。


それで本題の小説『デカメロン』ですが、これが相当に下世話な話です。

時は14世紀半ばのペスト(黒死病)の流行は、フィレンツェに暗い影を落としていました。
ペスト禍によって、ヨーロッパの人口の3分の1が失われたといいます。
人から人へ感染するわけだから、人の密度が濃い都市部でパンデミックが起こらないわけがありません。

ボッカチオは『デカメロン』の序章で、その様子を冷静かつ克明に記しています。
少し引用してみます。
「古典なんて読み辛い!」と思われるかもしれませんが、そこは心配ご無用、600年にわたって読み継がれている傑作です。
面白くないはずがないのです。

時は主のご生誕1348年のことでございました。
イタリアのいかなる都市に比べてもこよなく高貴な都市国家フィレンツェにあのペストという黒死病が発生いたしました。
これは天体がもたらす影響のせいか、それとも人間の不正のせいか、それとも神が正義の怒りにかられてわれわれの罪を正すべく地上に下されたせいか、いずれにせよ数年前、はるか遠くの地中海の彼方のオリエントで発生し、数知れぬ人命を奪いました。
ペストは一箇所にとどまらず次から次へと他の土地に飛び火して、西の方へ向けて蔓延してまいりました。
惨めなことでした。
そのフィレンツェでは、人智を尽くして予防対策を講じましたが、むなしうございました。
市当局によって特別に任命された役人が市街の清掃につとめ、汚物を除去し、病人の市中への立ち入りを禁止し、衛生管理も周知徹底すべくお触れを出しました(わかりやすい歌にして流したほどでございます)。
お祈りも行われました。
それも一度や二度ではございません。
何十度、何百度でございます。
信心深い方々は市中を行列して練りまわるなど種々の方法を講じて、神様に嘆願いたしました。
しかしそれとても効き目はございませんでした。
その年の春先から大災害は始まりました。
それは信じがたいほどの凄まじさを私どもの目の当たりで見せつけたのでございます。
(『デカメロン上』平川祐弘訳 河出文庫より)


過不足のまったく見られない表現、淡々としたボッカチオの語り口は、逆にペストの恐ろしさをそのままくっきりと伝えてくれます。
人がばたばたと死んでゆき、道のわきには死体が積み重ねられ、あまりに多くの死者は教会の許容量を軽く超えてしまいました。
仕方がないので大きな穴を掘って一気に埋葬し、その上から少しばかりの土をかけるのみ。
死体からさらに病気が伝染し、また同じことが繰り返されるのです。

こんな有様でしたから、社会は極限状態に陥りました。
人々はみな疑心暗鬼になり、親兄弟という根底の関係でさえもめちゃくちゃに破壊されます。
暴行、略奪、強姦があちこちにはびこり、もはや法律や道徳は機能しなくなって、理性より本能が優先されました。

混乱にまみれた都市に嫌気のさした7人のうら若き淑女たちは、3人の青年と連れ立って、フィレンツェ郊外の丘に建つ屋敷に少しのあいだ身を寄せることにしました。
いわば、ペスト避難です。

って、これ男女の比率おかしくないですか。
女子:男子=7:3ですよ。
大体、若者の男女10人が同じ屋根の下で10日間も過ごすわけです。
合宿式の合コンです。
しかも、比率が女子:男子=7:3とか、ちょっと何というかアレじゃないですか。
7:3だって!

さっそくすることが無くなった若者たち、それなら一人一話ずつとっておきの面白い話をしよう、と木陰の下で輪になって語り合いました。
もちろんソーシャル=ディスタンスは守っています。

一日一人一話、十人、それが十日で百話。
『デカメロン(十日物語)』のはじまりです。

彼らは毎日テーマを決めました。
僕が個人的に好きなのは、第6日目のテーマ「とっさのうまい返答で危機を回避した人の話」で、もしこういう能力が僕にあったのならこれまでに犯した愚かな失敗の数々も回避できたのかもしれない。
また、第3日目の「不幸な恋人たちの話」や第7日目の「夫をだました妻の話」も捨てがたい。
妻がニヤニヤしているのですが、一体何がどうしたというのでしょうか。
お話の内容はバラエティに富んでいて、最後は神をもだまして聖人に祭りあげられた大悪党や、僧院の修道女全員と関係を持ったプレイボーイの話など、時には滑稽で時には深刻な人間ドラマが描かれています。
中にはちょっとエッチでスケベなお話もあります。
何といっても「相席ダイニング=デカメロン」だからです。

彼らの語る人々はどれも鮮やかなまでに人間的で、それは赤裸々な独白であり、その健康な本能と意志は、悲痛なペストの惨劇の中で描かれたものとは到底思えません。
『デカメロン』を読んだ人々がその生命力に再び灯をともせるようにと、ボッカチオはそう祈ってこの作品を書きあげたのでしょう。

彼の著作はおおよそ好意をもって人々に迎えられましたが、そこは禁欲主義を是とする中世以降のカトリック教会、保守派の修道士たちは『デカメロン』を糾弾するだけでなく、作者にまで口撃を加えたといいます。
卑俗な作品を遺してしまったとボッカチオはだんだん懺悔の念にとらわれ、晩年は故郷にひきこもって寂々と日々を過ごしました。


ペストと『デカメロン』の状況が、昨今のコロナ禍に似ているなと思った方も多くおられるでしょう。
実際にイタリアでは同じような光景が、コロナによってもたらされました。
都市封鎖や自粛により様々な文化活動が制限を余儀なくされています。

しかし人間の活力は健全な精神によって支えられています。
そして精神の滋養が文化であるならば、『デカメロン』はヒューマニズムの根底に潜む“理性”と“尊厳”がいかんなく発揮された、珠玉の人間賛歌といえるでしょう。

さあ皆さん、ともに語り合おうじゃないか!
noteに示された数々の作品の、瑞々しいばかりの歓喜・憤怒・悲哀、まさに現代の『デカメロン』なのです。
我らより湧き出る意欲の魂が大地を揺るがすうねりとなって、人間性の解放を歓びましょう!


いやあ、最初はどうなるかと思ったけれど、なんだか良い話風にまとまった気がする!


ボッカチオ


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