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水戸市の西、つくば市と宇都宮市の中間!
茨城県の筑西市(ちくせいし)の中心には
「下館駅」という駅があります。

しもだて。

茨城県の西部、栃木県へもアクセスがいい。
東西の「水戸線」は、東に水戸、西には小山。
南北には「関東鉄道常総線」「真岡鐡道」です。
北に行けば真岡・益子・茂木、
南に行けば下妻・常総・守谷につながる。
+の形に鉄道が交差する場所…。

自動車においても、国道50号線や
北関東自動車道に近くて、
水戸へも宇都宮へも、つくばへも行きやすい。

本記事ではこの「下館」の歴史について
書いてみます。

まずは地名から。
下館、があるのであれば、上中下、
上館、中館もあるのでは?
…それが、あったんですよ。

8世紀、奈良時代の話。
天皇の位を狙ったとされる道鏡の排斥に
功績があった「藤原魚名」
(ふじわらのうおな)という
人がいる。藤原北家の偉い人!
桓武天皇の左大臣にもなりますが、
782年、政争に敗れ、大宰府に左遷。
783年に亡くなった。

この人が781年、まだ権勢を誇っていた頃、
奥州(東北地方)の敵に対抗するために
「上館、中館、下館」という
三つの館を建てたのが「しもだて」の始まり、
という伝説があります。

平安時代の939年、平将門が乱を起こすと、
この藤原魚名の末裔、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
三つの館に陣を敷き、将門を迎え撃つ!

ということで、下館の地は
藤原氏にゆかりがあったんですね。
じきにその子孫である
藤原実宗(さねむね)という人が
「伊佐氏」を名乗って治めた。
(伊佐は下館の近くの中館の別名)

「伊佐氏」は「伊達氏」の流れでもあります。

戦国時代の奥州の覇者、ご存知、
「独眼竜」こと伊達政宗(だてまさむね)の
一族とも、非常につながりが深かった。
仙台伊達藩の当主たちは、
伊佐城の跡にある観音寺に
代々参拝しに来た、とも言われています。

(もっとも、伊達、という名字も、最初は
「だて」ではなく「いたち」や「いたて」、
「いだて」
などと呼ばれていた。
「いばら」が「ばら」になったように、
「い」を読まなくなっていくんですね)

ただ、この下館の伊佐氏は、室町時代に没落…。
1467年「ヒトノヨムナしい」応仁の乱の後、
1478年に「水谷勝氏」という武将が
この地に下館城を建築します。

この水谷氏(みずたにでなく、みずのや)、
西隣の結城(ゆうき)の地を治めていた
結城市の家臣でしたが、

「結城四天王」の一人と呼ばれた
水谷蟠龍斎(みずのやはんりゅうさい)など
勇猛な武将も輩出、強かった!
その実力は天下人、豊臣秀吉にも認められ、
独立した大名として認定。
その流れで江戸時代には水谷氏が
下館藩を治めることになった。

さて、ここまでをまとめてみましょう。

◆上館・中館・下館の3つの館の一つ
◆藤原氏ゆかりの土地
◆その子孫の伊佐氏、伊達氏ともつながり
◆戦国時代には水谷氏が治める

…ところがですね、この水谷氏、
江戸時代初期に国替えになる。
後を継いだのは水戸藩主、
徳川頼房の長男、松平頼重でした。
将軍の徳川家光と、いとこ!
風呂に一緒に入るほど仲が良かった。

「やった、将軍のいとこ、マブダチ、
超大物が下館藩を継いでくれたぜ!」と
下館の人たちが喜んだのもつかの間、

「生駒騒動」と呼ばれる
四国の高松藩の事件の余波を受け、
頼重は四国に国替えになります。
その結果、下館藩は廃藩…。
幕府の直轄領になるんです。
その後、復活するも、
増山家、井上家、黒田家など
藩主がころころと変わる…。

おそらく、交通の要衝である
下館の地に強い藩ができてしまうと、
何かと幕府の統治に差しさわりがある…
と考えられたのではないでしょうか?

下館藩がようやく落ち着いたのは、
三重県の伊勢、神戸(かんべ)藩の
石川総茂(いしかわふさしげ)
移封されてきてからのこと。
この人、神戸藩では名君の誉れ高く、
移封時には領民から「行かないで!」と
嘆願書が出されたほど。
(ちなみに石川家は徳川家康に仕えた重臣、
石川数正などを輩出した名門)

この石川家が九代続き、
明治維新まで迎えることになります。
「ようやく落ち着いたんですね。
良かった良かった!」
…ところが、あんまり良くなかった。
何が? 藩の財政が、です。

第四代藩主の石川総弾(ふさただ)の時代。
彼は藩内で綿花の生産(真岡木綿)を奨励、
産業を発展させていきました。

ところが、時代が悪かった…。
「天明の大飢饉」による大被害。
「小貝川・五行川大洪水」が起きる。
「下館大火」という大火災まで起こる。
飢饉・洪水・火災のフルコンボ!
復興費が積み重なって、
藩の財政は破綻寸前まで追い込まれる。

そこで現れるのが、そう、あの人。

諸藩の財政が苦しい時には、
あの人が現れる!
小学校の銅像、たきぎを背負って
本を読んでいた人。
その名も二宮金次郎、二宮尊徳です。

石川家第八代藩主の総貨(ふさとみ)は、
この尊徳の教えを乞い、
「報徳仕法」と呼ばれる財政再建政策に
着手していきます。

ただ、その次、第九代藩主である
総管(ふさかね)の時に明治維新、
下館藩そのものが「廃藩」になります。
下館県は、茨城県に統合されました。

江戸時代の下館をまとめると、次の通り。

◆超大物の松平頼重、いなくなり廃藩
◆藩主がころころ変わった
◆石川家の第九代にわたる統治
◆災害フルコンボで財政破綻寸前!
◆二宮尊徳パワーで財政再建…
◆しようとしたら明治維新で廃藩に

最後に、全体をまとめます。

本記事では主に江戸時代までの
「下館」の歴史について書きました。

下館は明治以後、
「交通の要衝」という地理条件を活かして、
徐々に発展していきます。
下館の商人たちは「下館商人」と呼ばれ、
「関東の大阪」とも呼ばれる
商都
として隆盛を極めたのです。

特に「綿製品」の生産が盛んでした。
「足袋底織」(昔の靴下の底)の生産は
戦後まで全国市場をほぼ独占!

綿花を運んだ真岡鐡道は、
「コットン・ウェイ」とも呼ばれる。

2005年に市町村合併で、筑西市が誕生。
1000年以上続いた「しもだて」の名は
行政の表舞台から失われてしまったのですが、

駅や高校の名前など、また住民の心の中に、
「しもだて」の名前は
今もなお力強く残っています。


七月最後の土日付近の四日間には、
「下館祇園祭」が行われ、
重さ日本一の神輿を持って練り歩く
勇壮な祭りが行われます。
神輿を担ぐのは「伊達組」という団体。

「だて」の誇りを受け継ぐ土地、下館。

ぜひ読者の皆様も、機会がありましたら
一度訪れてみて下さい!

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