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「最近の若者はなっていない」

そのように書いた人がいます。
粘土板に書かれました。
人類で初めて製鉄技術を実用化させ、
強国となったヒッタイト王国
現在のトルコのあたり、
紀元前16世紀頃の古代王国です。
ここで書かれた、と言われています。

「最近の若い者は年長者を敬わず、
両親に反抗する。
法律は守らず、道徳心は腐れきっている」

かのように嘆いた人がいます。
こちらは紀元前四世紀の古代ギリシア。
かの有名な哲学者、プラトンの言葉。

「たとえ親であっても、
社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは、新しい故郷なのである。
我々はこれより過去を切り捨てる」

このように叫んだ、と言われる人がいます。
20世紀のカンボジアの独裁者、ポル・ポト
彼は年長者を信じず、権力を握ったあと、
「子ども」を重用し、軍人や医者をさせたり、
子どもに大人を殺害させたりしたそうです。

洋の東西、時代を越えて、
「世代間憎悪の種」は、人間世界の
いたるところでまかれてきました。
今も、まかれています。

本記事では、世代間憎悪、
世代間ハラスメントについて。

「最近の若い奴らは、だめだね…!」
「頭の固い年寄りども、老害だ…!」


こんな言動はないでしょうか。
つい、思ってしまわないでしょうか?

こういう考えの背景にあるのは
「ある年齢に達した人を、
個々人の個性、千差万別さを考慮に入れず
十把ひとからげ、全部同じものとして
考えてしまう」
という考えですよね。

「若者」「老人」というカテゴリーを作り
くくってしまうのです。

それは、年齢別で「分析」をする、
「あえて分ける」という観点では
有用かもしれませんが、

同時に、個々人を分けていない、
同質化してしまっている
、ということを
意識しておく必要があります。

そう、ある基準で「分ける」ということは、

同時に、ある基準を満たしたものを
「分けずに同じに見る」ということでもある。
分けたことで、分けなくなる。

こういうことは、仕事上でも
よくあること。

例えば会社組織で「労務」を考えた時、
「雇用者」「被雇用者」つまり
「雇っている人」「雇われている人」
このような「区分」をしますが、

雇っている側も、雇われている側も、
さまざまな事情、さまざまな背景を
背負った一個人です。
社歴も待遇も権限も立ち位置も、千差万別。

でも、その個別化を考え過ぎてしまうと
仕事が回らない、時間が足りないため、
同じものとして
例えば法律という基準に則って
「処理」をしていく必要も、ある。


…数が少なければ、いいんです。
すべての人を個々人、
ケースバイケースとして、考えられる。

でも、数が多くなってきて、
もう個々人の背景など考えられない!
そんなことをしていたら時間がない!
となった時には、

ベストよりベターな判断で
「ある基準でスパッと分けて
『機械的に』『素早く処理』していくこと」

求められてくるのです。

採用シーンでも、
あまりにも応募者が多くなってきたら、
「足切り」をしなくてはいけなくなる。
それと似ています。

さて、話を、世代間憎悪の
話に戻しましょう。

ジェネレーションギャップ・ハラスメント。
エイジ・ハラスメント。

こういう言葉が、あります。

厳密に言うとこの二つは違うのですが、
あえて簡単に言えば、
「世代」「年齢」だけで人をくくり、
ある特定の年齢層の人に対して
その理由だけでいやがらせをすること
、です。

…情報が少ない昔であれば、
ある環境の、ある世代であれば
同質であることも多かったかもしれません、

しかし「情報爆発」と言われる現代、
たとえ同じ年齢層の人たちであっても、

個々人によって、凄まじいほどの差や
個性があることが多くなってきています。


スマホに触ったことのない高齢者もいれば、
縦横無尽に使いこなす高齢者も、いる。
スマホを縦横無尽に使う若年者もいれば、
(経済的な事情などもあったりして)
全く使ったことのない若年者も、いるのです。

それは、リンクトインなどの
SNSを使っている皆様は、
わかっているのではないでしょうか。

そのことを「想像」せず、
あるいはわかるけど「あえて無視」して、
「老害」とか「近頃の若い者は…」というのは、
いささか「くくりすぎ」ではないのか?

もちろん、そう言う私自身も
「くくって分析する」ことはあります。
というか、よく行っています。
本記事は、自分への自戒も込めて。

「〇〇世代は…」「〇〇の時代では…」と
記事を書いているとき、無意識のうちに
「スパッと分け過ぎ」ではないだろうか?
「トリミングしていること」への自覚は?
「個々人」を無視していないだろうか?
そう思うことが、あるのです。

なので、せめてもの報いとして、
「この情報は私の主観によって
取捨選択し、トリミングしていることですよ!
他の情報源、他の見方をすれば、
いくらでも他にも解釈できますよ!」
と、

折に触れて書くことで
まずは自分に言い聞かせていこうと思います。

最後に、まとめます。

〇〇ハラ、についての情報や意識は、
高まってきていると思います。

しかし、ジェネハラ、エイハラについては、
他のハラスメントに比べて
いささか意識が低いように思うのです。

それは「同年代」の中では、
とても盛り上がりやすい
ものだから…。

「外敵」は、内側を団結させます。

「仮想敵」を外につくりあげることにより、
個々人の事情は消え、無視されて、
「自分たちは同じ仲間なんだ」
「あの人たちとは違うんです」と思うもの。

仲間ができるのは、気持ちの良いものです。

そう、自分とは違う世代、年齢の人たちへの
嫌がらせ、ジェネハラ、エイハラ、とは、
その対象を「攻撃する」と同時に、
自分の「仲間づくり」という側面があるのです。

だから、無くなりにくいのかな…
と思います。

独裁者ポル・ポトは、子どもたちを洗脳し、
上の世代を仮想的にし、子どもたちに殺させ、
若い者同士こそが主役、仲間である、と
思わせることによって、
そのようなことをさせる自分の地位を
安泰にしようと図りました。

彼の独裁政権、子ども帝国は、
1975年~79年の約四年で崩壊します。

しかし彼の蛮行によって、カンボジアでは
一定の年齢層の人口が極端に少なくなり、
その後の復興に、大きな遅れが出ました。
彼や、彼に洗脳された子どもたちは
国のために、と思っていたかもしれませんが
かえって国を破壊してしまった、のです。

私も「中年世代の複業クリエイター」
と名乗っている以上、

この主観的な「区分」が内蔵する
ハラスメントの種を自覚しつつ、
世代は一つの基準、
絶対的なものではないぞ、と心に留めつつ、
活動していこうと思います。

世代間の断絶と憎悪ではなく、
各世代の理解と共存。


読者の皆様はいかがでしょう?
皆様の組織は、いかがですか?

ジェネハラ、エイハラの種が、
まかれてはいませんか?
世代間憎悪主義の独裁者は、いませんか?
かえって、組織を破壊してはいませんか?

『ジェネレーションギャップハラスメント』
こちらの記事もご参考まで↓

※内館牧子さんの小説
『エイジハラスメント』はこちら↓

※映画『キリング・フィールド』はこちら↓

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