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かの有名な織田信長の軍団には
もちろん時期によって色々ですが
五人の有力な軍団長がいた、と言われます。

(豊臣)秀吉と明智光秀は
かなり有名ですよね。しかし、
あと三人は?と問われて
すぐに出てくる人は、相当歴史に詳しい人。

◆柴田勝家(しばたかついえ)→北陸担当
◆滝川一益(たきがわかずます)→関東担当
◆丹羽長秀(にわながひで)→近畿あたり担当

この三人だと、よく言われます。

本記事はこの三人、特に
柴田勝家と滝川一益について。

◆秀吉→中国地方、毛利担当
◆光秀→丹波担当

大河ドラマの主人公にもなった
この二人に比べると、どうにも影が薄い三人。

なぜでしょう?

…いろんな理由はあるでしょうが、
信長の「家臣」としては優れていたが
一個の「大名」、君主としては
いまいちだったのが
原因ではないか
、と思います。

秀吉は、天下を取りました。
光秀は、謀反を起こしました。

これは、信長の家臣として
働きながらも、
自分個人としてはどう動くか、

それを常に念頭に入れて
動いていた証左ではないでしょうか。

対して、勝家や一益は、どうか?

特に「本能寺の変」のあとは
「受け身的な動き」が多いのです
(丹羽長秀は、秀吉の調略もあったが、
早々と秀吉側についています)。

ここに、ビジネスにも
通じるところがあるのでないでしょうか?

ある組織に勤め、仕えて、
そこで存分に力を発揮すべく
頑張るのは、とても大事なことでしょう。

しかし同時に「個人」として
その組織をどう変えていきたいのか、
自分はどう生きていきたいのか、

主体的に考えておくことも必要ではないか、
と思うのです。

属する組織に、自分の人生までも
丸投げしてはいけない。

…それを常に考えていたであろう
秀吉と光秀は、名を残し、

あまり考えなかった、
または考えたが甘かったであろう
勝家と一益は、負けたのではないか。

言いかえれば、
一歩、抜け出せなかったのです。

ゼロからスタートした秀吉、
諸国を流浪した光秀に比べて、

勝家と一益は
自分と組織というものに対する
見通しが甘かった
、と言わざるを得ない
(もちろん、歴史の後付け解釈ですが)。

…ただ、譜代の家臣だった
柴田勝家や丹羽長秀はともかく、

個人的にサバイバルしてきたであろう
「忍者の出」滝川一益は
もう少し主体的に動いたり、
見通しを持っていたりしていても
良かったのではないでしょうか?

…これは、私の完全な推測なのですが、

人たらしで苦労人の秀吉に比べ、
一益はいささか自分の力と
織田家という組織のパワー、
織田信長という英雄のパワーを
混同しすぎる
ところが
あったのではないか、と思います。

秀吉や光秀は、
信長に敬意を持っていつつも

依存し溺れることはなく、
「批判的な目」を持っていました。

だから天下を取ったり、
謀反を起こしたりすることができた。

一益には、それが無かったのです。

本能寺の変の後、一益は
北条氏の大軍に攻められて
なすすべなく負けました。
毛利軍と素早く講和して
中国大返しを行った秀吉との差が大きい。
織田家の後継者を決める、
清洲会議にも出られませんでした…。

ただ、あとは余談なのですが、

柴田勝家は、秀吉に負けた後、
信長の妹にして妻のお市の方とともに
城を枕にして死にます。

一方の滝川一益は、

秀吉に降伏して所領を全部没収された。
しかし小牧・長久手の戦いでは
秀吉方として、活躍。
籠城して負けたりはしたが、
大名として復活していきました。

まとめます。

…何かに失敗した後も、
人生は死ぬまで続いていきますよね。

柴田勝家や滝川一益の生涯は、
確かに秀吉ほどは華やかでは、ありません。

しかし、だからこそ
歴史上の「しくじり先生」として、

今を生きる私たちに多くの教訓を
教えてくれる
ように思うのです。

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