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【短編小説】無事コレクター

 無事だったことを伝えるニュースを日々記録するサイトの運営者を取材したことがある。

 工場で大きな事故が起き数名の軽傷者が出たものの関係者は全員無事。
 雪山での遭難者が無事に発見された。
 新しい交通機関が無事に運行を開始した。
 新しいロケットエンジンの動作実験が無事に成功した。
 予定どおり新しいウェブサービスが無事スタートした。

 そんな話題だけを日々アップするサイトは通称「無事コレクター」などと呼ばれていた。話題になりやすい芸能スキャンダルや腹立たしいニュースがネットで日々ページビューを争う中、刺激は少ないけれど良かったことだけを集める癒やしのサイトとして有名になっていた。

 運営者は脱サラした30代の男性。
 大学卒業後に証券会社に勤務。退職後にサイトをスタートした。今はデイトレーディングで生活しており、サイト運営はあくまで趣味。人気になった今もサイトの規模を拡大したり起業することは考えていないそうだ。そういう誘いや出資の提案もあるそうだが、自分ひとりが食えて穏やかに生活できることが一番だと言う。

 会社員時代には社会の色々な部分を見せてもらいました。良いことも悪いことも。そんな中で無事に目標を達成できたことの喜びを大きく感じることを意識するようになりました。
 仕事で目標達成したとか、顧客企業が上場したなんていう大きな結果もそうですが、今日も無事に仕事が終わった、顧客企業も順調に業績をあげている、トピックとしてそこまで重要ではない、大事なことだけど当たり前な事象をあえて感じることで心が楽になることを知りました。逆に言えばそれだけ毎日しんどいことが多かったということなんでしょうね。

 静かに淡々と話す彼からは、つらい日々を懸命に乗り越えてきたことで手に入れた喜びへの揺るぎない信頼が伝わってきた。

 今はそれまでの経験を元に贅沢しなければ食えていけるし、平穏に暮らせていけることが一番うれしいです。キャリアパスなども考えないわけではないですが、ここまで無事なニュースを求める人が多いということは、まずは日々を無事に過ごすことが思っていたより大事なんじゃないかと考えるようになりました。
 会社員時代と似たことをしている面もありますけど、心持ちが全然違います。毎日およそ決まった時間に無事に仕事が片付いて、趣味のサイト更新も無事にできるのは嬉しいことです。特別ごちそうなわけでは無くても満足な美味しい食事ができているようなものでしょうか。この生活を一生無事に続けていけるのなら、それは幸せなのかも知れないですね。

 1時間くらいの取材は淡々と進んだ。
 それだけ穏やかさを求めるというのは過酷な経験の反動なのでしょうか、意地悪な質問をしようかとも考えたが、逃げ込む先としての平穏ではなく、平穏であることが何より大事であるという強い意志を言葉の端々から感じ取れ、それだけで彼が経験した事柄が想像できるような気持ちになった。
 まだ若いのにできた人というのは本当にいるのだなと感心したし、そうなった経緯を具体的に聞かなくても十分なのでは無いかとも考えた。

 無事に終わりましたね。あとは紙面に無事掲載されることを期待しています。よろしくお願いします。
 そう言って取材は終わった。

 夕方、会社に戻ると株の暴落が起きていた。海外の大手証券会社が突然破綻したことが引き金で起きた事態だった。彼もインタビューの合間に良くない噂があるから逃げるタイミングを考えているなんて話をしていた。具体的なことは言えないですが無事逃げられるよう頑張りますなんて笑っていた。トレーディングはそういう積み上げなので、無事が続くことは大事なのだそうだ。同僚で小遣い稼ぎで株をやっていた人間も顔色が悪くなっていた。穏やかではなかった。

 はたして彼も無事では無かったようだ。取材のお礼も、原稿チェックの依頼も返事はなかった。無事サイトの更新も取材直前にアップされた記事でストップしていた。もらった名刺にあった携帯電話は繋がらなかった。電子メールはエラーで戻ってくることは無かったが返信はなかった。
 つまり無事ではなかった。記事も掲載されなかった。

 そんな騒動があってから半年くらいして彼からメールが届いた。
 すぐに返信できなかったことを詫び、取材の後に起きたことが書いてあった。暴落騒動から逃げ切れず大きな損が出たこと。予想以上の損だったために穏やかではいられなかったこと。会社員時代の嫌だった思い出がよみがえり何もかもが嫌になったこと。正直に書いただろうそのメールは、取材で感じた彼の性格があらわれていた。その時は無事では無かったらしい。

 そんなこんなで今は前と全然違う場所で違う仕事についています。
 多くのことを放り投げてしまいましたが、ひとまず無事に過ごしてます。
 ご迷惑かけました。無事に仕事が続いていることをお祈りします。

 無事の連絡はたしかに安心する。


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