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裁判の判決は科学的真理の一つの形であるべき

先日、行政書士法人ひとみ綜合法務事務所ホームページのblogに綴った、お車の件のお客様から、嬉しい手書きのお手紙が届きました。

申請後の役所の理不尽な問題に対しても、相談にのっていただき、力をいただいた思いです | 生活保護相談・申請のことは行政書士法人ひとみ綜合法務事務所 (seiho-navi.net)

『理不尽な問題』は、実のところ、日本社会に山積みです。
たしかに、世界で起きている悲惨な戦争と比べれば、日本で生活できることは恵まれたことなのですが、逆に、法治国家、民主主義の日本において、なぜ憲法に反すると思しき問題や人権侵害が起きているのかと、絶望的な思いに駆られる方も、沢山見てきました。

一個人だから軽んじられる、というわけでもないのです。
国民全体が、軽んじられている問題もあります。

物価偽装、統計不正により史上最大幅の減額がされた生活保護費。この影響は年金制度はじめ国民の様々な生活にも及びます。

以下は、本日届いた、ジャーナリスト白井康彦さんのメールです。
日本で暮らす、すべての方にお読み頂きたい内容です。

『おはようございます。
いのちのとりで裁判の各地の弁護士から
「負け判決はじっくり読む気がしない」といった感想を聞きます。自然な感情の発露であり、正直な感想ですが、敗因分析はやはり超重要です。

将棋の格言には「敗局は厳しき恩師なり」という言葉もあります。いのちのとりで裁判は、最近は勝訴が多い中でたまに負けが出ます。地裁は最近は圧倒的な勝率ですが、高裁は現在は1勝2敗で次も負けても不思議はない感じなので、茨の道が続きます。

原告敗訴のパターンは「行政裁量の幅は広い」とした上で「行政側の説明も一定の合理性はあるから裁量の範囲内だ」といったものです。厚労省がやった統計不正の悪辣さがある程度まで理解できれば、こういうパターンの判決にはなりません。

この裁判の難しいところは、行政が相手であることと統計絡みの問題であることです。厚労省が「物価偽装」「2分の1処理」という統計不正をやり、その統計不正の産物である統計データを根拠にして2013年生活扶助基準改定案を作ったわけです。「超重要官庁である厚労省が意図的な数字いじりをするはずがない」という思い込みが世間、マスコミ、司法の世界などに強固に根を張っています。ところが厚労省はそれをやった。それを裁判で明確にしていくのは、もともと相当にしんどいのです。

「こういう組織は悪いことをしない」という思い込みは、裁判所やマスコミのジャッジも狂わせます。
「厚労省が政治の圧力を受けて統計不正を実行するはずがない」という裁判官の思い込みの影響が我々の裁判結果にもある程度反映されています。

統計不正の事実を立証していくのは理数的な科学的思考が必要になります。ところが、我々側の弁護団や各地の裁判官もこうした思考は苦手で敬遠しがちです。我々側の弁護団、支援者、原告にも「統計不正の事実関係をじっくり考えよう」という姿勢の人はほんのわずかです。弁護団がこうした思考が苦手だから、支援者や原告も統計不正のカラクリをじっくり考えようとしません。だから、マスコミにも伝わりません。

物価偽装や2分の1処理を深く研究してきた少数の学者・弁護士・マスコミ関係者は、孤立したような状態になっています。地動説を唱えたガリレオガリレイみたいな感じ。恒星の周りを惑星が回る。太陽系では太陽の周りを地球などが回るわけですが、ガリレオの時代では多くの人が「地球が太陽の周りを回っているはずがない」と思い込んていたのも無理はないでしょう。

原告側がこの孤立状態を解消する本筋の対策は、統計不正に関して科学的に思考する人を増やすことです。厚労省が実行した統計不正のカラクリはそれほど難しくないので、充分に可能です。「物価指数の話は分からないに決まっている」という思い込みが一番の敵です。原告側関係者がこの思い込みにとらわれていると、物価偽装や2分の1処理を深く研究してきた少数の学者・弁護士・マスコミ関係者のガリレオ状態は今後も続きます。この状態で、最高裁で我々が負けたら悲惨です。だから、マスコミ、国会、学会などにも幅広く理解者を増やしていかねばなりません。科学の真理を勝訴にむすびつけようとしないのは、実にもったいないです。』

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科学的真理とは、科学的実証という根拠に基づいた真理を指します。
科学的とは、ある事物に対する説明や行為が科学の方法に合っているさまを指します。

実証的、合理的、体系的で正確なさま、またそのような傾向にあることを意味します。科学的視点とは、事実をそのままとらえること、とらえた事実から導き出せることのみを「意見」とし、その「意見」をリレー方式につなぐことで論理を展開させていくことを指します。

科学とは、客観的なデータから結論を導くもので、主観的なデータを入れることはありません。誰が見ても同じ論理を導ける普遍的なものといえます。

裁判では、様々な根拠を列記し、法律に照らし合わせて判決を出します。裁判官の私見が入る余地はあるかもしれませんが、感情論や支離滅裂な根拠を排除し、客観性のある根拠を論理的に紐付けていくことで公平な判決が下せるはずです。

つまり、裁判の判決とは、科学的真理の一つの形ともいえます。裁判において「苦手だから」は言い訳になりません。苦手なら専門家の協力を仰げばいいのです。正しいことを正面からぶつけて負ける裁判があるとするならば、裁判官が「正しいことが理解できない」のか、「正しいことを認められない」のいずれかの場合でしかありません。

前者であれば、不勉強としかいえず、後者であれば外圧に屈しているともとれます。

憲法第76条第3項には
「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」とあります。
良心とは「道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き」です。
「正しく行動しようとする心」があるならば、正しいことを理解できないままにすることはなく、正しいことを認められないこともないはずです。

良くも悪くも裁判官の良心にかかっているということです。良心という形のないものを核とするからこそ、ブレる可能性もあります。そのブレをなくすためにも、科学的真理は必要不可欠なものです。

いのちのとりで裁判で勝訴する為には、「保護費引き下げ」の経緯の矛盾点をつくのは必要なことです。物価偽装や2分の1処理をしたことを指摘するだけでなく、これらを採用した厚生労働省の言い訳を「科学的真理」で切り崩すことが重要です。

サンプル計算などの科学的実証は白井氏の功績であり、これにより科学的真理は導かれています。真理そのものを理解している人が少なければ、真理は力を失います。

天才の閃きを人類が理解するには膨大な時間がかかることは、歴史が証明しています。しかし、科学的実証は天才の閃きを理解するための鍵になります。

どんなに複雑なことでも科学的に論じれば、必ず真理に辿り着きます。諦めず挑戦することで理解する人が増えていけば、真理は困難を打ち砕く力となります。スコラ学派に批判された地動説もケプラーやガリレイによって明らかにされ、教会による否定にもかかわらず、合理的な世界観として一般に受け入れられるようになりました。教会(=権力)に屈することなく科学的データによる正しさを唱え続けたからこそ真理として受け入れられたのです。

まさに、いのちのとりで裁判の構図といえます。歴史に倣うのであれば、科学的真理を唱え続けることこそが、勝訴を掴み取ることにつながるのではないでしょうか。

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