わたしには××する資格がない
昔から「(物理的な)痛みに強いよね」と言われることが多いです。
お腹が痛いなぁ~動けないな~と思っていたら夜通し吐き気が止まらず、なんとか歩いて病院までたどり着くと腸が破れて膿が全身に回りそうになっていたことがありました。
歯が痛いな~と思っていたら、神経がむき出しになっていたようで、なぜこのまま放置していた!?とお医者さんに驚かれたこともあります。
母がアキレス腱を切っても気付かずテニスを続けようとするような人なので、遺伝かと思っていましたが、最近どうやら違うようだと気付きました。
もちろん痛いことには痛いのです。でもこれって他のひとからしたらたいしたことないのかもしれない、こんなことで痛いっていう資格なんて私にはないはず、当たり前のようにずっとそう思っていました。
最も(表現が正しいか分からないけど)拗らせていた中学・高校時代は、痛みを感じることでなにかを許してもらっているような気持ちになっていたし、そもそも分からないのです、これは痛いといえるレベル?我慢しなければいけない?みんな普通の顔で街を歩いているけれど、もしかしてこの痛みを抱えて生活しているの?わからない、こわい、こわい。
あまり関係の深くない人ほど、私のことを「優しすぎる」「いい人すぎる」と言います。でもそれはわからないから。この対応、返答、ふるまい、合ってる?正しい?失敗したくないから出来ることはすべてやってしまいます。その方がこわくないから。深く関わらなくて済むし。ほんとうはこんなに薄情な人間なのに、勘違いさせてごめんなさい、でも勝手に決め付けてくるのが悪いよね・・・と思っています(やっぱり全然いい人じゃない)。
こんなことを話しながらも、最近はだいぶ素直に痛いと言えるようになってきました。別に痛みを感じ、それを声に出すことに資格なんていらなかった。22年間生きてきてそんなこともわからなかったんだなぁ。まぁ死ぬまでに気付けたしいっか~。
少年アヤさんの「なまものを生きる」というエッセイにこんな文章がありました。
仕事帰りのサラリーマンが、生姜焼きのたれでべしょべしょになったキャベツを必死に頬張っているのを見ていたら、なにもしていない自分がどうしてここに、と思うけれど、じゃあおなじようになにもしていない、なにもできない人たちに対してもそう感じるかといったら、ぜんぜんそんなことない。むしろその日なにをしたかで、キャベツをたべていいかどうかなんて、窮屈でばかみたいと思う。みんなすきにしたらいいじゃん。なのに、どうして自分のことは平気でいじめてしまうんだろう。キャベツなんてたべる資格ないとか思っちゃうんだろう。
私には××する資格がない
そんな風に考えてしまうひとがちょっとでも楽になったらいいな~。
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