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分からないを噛み締めて。〜曖昧を愛する1年に〜

自分のみぞおち辺りに沈む感情を、言葉にすることが億劫な時がある。

今年も終わろうとするこの時期になると、たくさんの人が今年の振り返りやら来年の抱負を言葉にして綴り始める。そんな私ももちろん例に漏れることなく、夫と2人で振り返りも来年の抱負も話し合ったりしたのだけれど、なんだか全てを言葉(明確には文字)に起こしてしまうことへの寂しさみたいなものも同時に込み上げてきているのも感じていた。

普段からジャーナリングをしたりこうしてnoteも書いたり、言葉に起こすことが心地いいことが多いはずなのに、なんだか今感じることをわかりやすい言葉に起こしてしまうことが、私の中の全てを掬いきれないような感覚に陥っていたのだ。

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「ネガティブケイパビリティ」という言葉について、最近友人たちと話をした。

ネガティブケイパビリティとはイギリスの詩人ジョン・キーツにより作られた概念で、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」と言われている。(逆の概念をポジティブケイパビリティと呼び、「できるだけ早く答えを出して、不確かさや不思議さ、懐疑の中から脱出する力」、「問題に対してすぐに答えを出し『わからない』を『わかる』に置き換えていく能力」​​のことを指すらしい。)

私は私の中に曖昧に浮かぶ、「なんか…」を噛み締めているのが多分本当は楽しい。万人に分かりやすく、誰にでも伝わりやすいように明確に文字として記すことで、もちろんたくさんの人に届いて、共感してもらえたりレスポンスをもらえたりするプロセスももちろん楽しんでいるのだけれど、自分の中に悶々と深く潜りながらこの「なんか…」を感じ切っていく作業のほうが、実はきっと楽しめている。故に、言葉にすることそのものを億劫に感じてしまう時間が生まれる。

そしてある程度感じ切ってから、こうして言葉にゆっくり組み立てていくプロセスに入る。

どうしても早く言葉にしたくなったり、「分かりやすい」ものに変えて結論を出して早く消化してしまいたくなったりするものだけれど、一度この「耐える」という感覚の快感を知ってしまうと、むしろ早く答えを出してしまうことがもったいなくさえ感じてしまう。答えを出すことが面白いわけではなく、問い続けることを楽しんでいる私が確実にいるな〜と、その友人たちとの会話で気付く。

しかも、この不安を不安のまま抱えたり、しっかり感情を感じ切るというプロセスを経ることで、自分自身でも想像できない結果物になったりすることがあるのもまた面白い。無理に分かりやすくしなくていいし、複雑なものは複雑なままが面白い。

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歌人・東直子さんの詩に触れ、詩や短歌というカテゴリーのものに前より惹かれるようになったのも最近のこと。

子供らが散らかした部屋を抜け出して何を探そうとしていたのだろう

『春原さんのリコーダー』

元々詩は好きで興味はあったけれど、詩を理解しようとして読んでいた昔に比べて、今は詩を感じるように読んでいる。文章という表現の中でも、詩や短歌はかなり曖昧な表現や含みが許される分野のもので、そもそも表現の文字数に制限があることにより言葉の余白が自然と生まれる。

「ん?つまりどういうこと?」という曖昧な言葉の選択や並びに対して明確な正解を求めるスタンスからは一旦離れ、自分と書き手の間にだけ生まれる空気感を味わうように、ゆっくり咀嚼できるのがとても楽しい。(茨木のり子さんの詩にも心が抉られる)

そんな読み方ができる詩や短歌が、最近はなんだか心地がいい。答えを出さずとも、じんわり浸っていられる世界で自分の周りを埋め尽くしていたいと思う。

自分の中でもそんな変化を感じていたこの時期に、自然と会話の流れで「来年は曖昧を愛する1年にしよう」と友人たちと立てた抱負は、来年の私の心の支えになってくれそうだ。

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