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大きな夢が必要だという大きな勘違い

ここ数年、私がずっと言い続けている夢がある。

「大好きな人と、美味しいご飯食べて美味しいお酒を飲んで、笑って食卓を囲んでいたい。」

いやいや、夢ってそういうことじゃなくてもっとこうなりたいとか、こんな結果を作ってみたいとか、もっと稼ぎたいとか、もっと有名になりたいとか、そういうやつのことじゃないの?そういうの、ないの?と、昔の私が今の私を痛いくらい突っついてくる。

夢ってそんな当たり前のことじゃなくて、そんな簡単に叶いそうなことじゃなくて、手を伸ばしてもなかなか届かないくらい、努力のし甲斐があるようなもっと大きいことのことを指すのだと、以前の私は強く思っていた。

「もっと欲持ちなよ!」「希望は大きく持たなきゃ人生つまんないよ!」そんな昔の私が今の私をみたらきっと間違いなくこう言うだろう。ああ、こうやって書きながらも自分の声が頭の中で反芻してるのがわかるのがまたツライ。

でも、今の私はそんな昔の私に、少し強気にきっとこう返す。「それって、本当に叶えたいと思ってる?」と。

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夢は大きく!という言葉や観念は、無意識のうちに私たちの潜在層に深く刷り込まれているように思う。「将来の夢は?」と聞かれればそれは何年も先の遠い輝かしい未来の話になるだろうし、SNSをひらけば理想の暮らしをしている人や色鮮やかに活躍している人たちがたくさんたくさん目に入る。そしてそういう人たちからこぼれる要素を自分のカケラのように拾い集めて、「私もこうなってみたい!」と人は自然と憧れという名の夢を抱くようになっている。夢リスト100みたいなものを書いて「叶ってる!」という楽しさや嬉しさをそこに感じる人もたくさんいる。(私も例に漏れずもちろん書いていた&書いている)

もちろん私もそういう憧れや、やってみたいことの類みたいなものは確実にあるし、それに向けて溢れ出るアドレナリンを楽しんできたことも一度や二度じゃない。

今年私は34歳になった年だけれども、10代後半からここ数年前までは確実に「夢を大きく」抱いてきた若者だったと思う。(いや、今も全然若いつもりではいる。)そして気がついたら達成してきた大きな夢もきっと数え切れないくらいあって、幸せや可能性もたくさん感じてきた。

ただ、そうしてたくさんの大きな夢を描いて叶えてきたであろう幸せ溢れる過去を振り返ってみた時に私が思い出すのは、その時に掲げた大きな夢や、叶えることが出来た輝かしい目標ではなく、毎日に当たり前に転がっていた「大好きな人と、笑顔で楽しく食卓を囲んでいる」という日常の場面がほとんどだ。

夫と一緒に今日も美味しくできたねぇと口を揃えながらなんてことのない話をしながら食べるご飯とか、たまに帰った実家で父や母と夜中まで盃を交わす賑やかな時間だったり、いつも笑顔で迎えてくれる義理の家族との温かいテーブル、気の置けない大好きな友人たちと時間を忘れるほど話し込んでしまうティータイム。

大きな夢を掲げて、叶えて、また前に進んで。そうやって生きてきた数年前までの私だけれど、今こうして思い出すのは日々の小さな日常に全て詰まっていたのである。

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「大好きな人と、美味しいご飯食べて美味しいお酒を飲んで、笑って食卓を囲んでいたい。」

その夢は、「大きな夢」を必死に追い続けて生きていた過去の私からしたら、そもそも「夢」と呼べるものではないのかもしれないし、そもそも大きな夢を持たずに生きる日々なんて、生き甲斐のない平凡でつまらない人生だとでも言って見下していたかもしれない(なんて心の凍った人間だったんだ…反省。)。

けれど、日常に溢れる小さな幸せを拾ってはいちいち喜んで、多くを求めず当たり前に感謝できる、そんな毎日を過ごせることこそが、当時の生き急いで苦しくなりながらも大きな夢を追う私にとっては実は大切なもので、その大切さにここ数年で気づくことができたからこそ、今こうして心豊かに過ごせている自分がいるのだと思う。

今の私が持つ小さな夢は、あえて言うとするなら、そんな幸せな食卓の時間を作り「続ける」こと。そしてその場にいて欲しい「大切な人たち」をずっと大切にしていくこと。きっと、それだけだろう。

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