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自然の中で養う観る力

息子と散歩をしていると虫なんかをよく見つける。
もはやわたしの特技なのかそれとも、田舎育ちゆえに知らずとついた能力なのか…
小川を覗くとザリガニがいる。ほらそこにも、あそこにもという具合にすぐに見つけられる。
ところが、息子を始め、子どもたちやらその辺の大人たちはなかなか見つけられない。

森の中やそこら辺の野原でもわりとすぐに虫を見つけられる。
虫好きだったらどんなにいいことか。
残念なことにわたしは虫が苦手だ。見つけるやいなや、息子にいたとだけ報告してその場を立ち去る。
そんなことを何度か繰り返していると、息子も目が慣れてくるのか、自分で虫を見つけ出す。

生き物は大概、その体を自然の中に隠すのだけれど、その気配やら色、形をわたしは感じ取っているのか、何気なくそこを見るといるのだ。

ここにある写真をご覧いただきたい。


浅瀬の海をとったものです。
この中に、小さなつぶ貝やヤドカリがたくさんいるのですが、分かりますか?
磯遊びに息子とわたしのお友達の子たちを連れて行ったとき、彼らはこの中にいるつぶ貝たちが全く見れていなかった。
小一時間ほど、どんなものがどんなところにいるかなど教えてあげて、触れてもらって、探してもらってをしているうちに、自分で集めることができるようになっていった。
そもそも、つぶ貝がどんな感じで海の中にいるのか、ヤドカリとは絵本で見るような可愛らしいイラストのようなスタイルではないなどということは知らない子たち。
最初はつぶ貝とヤドカリの違いも分からずいたのに、いつの間にか「これはヤドカリ」「これはつぶ」なんて仕訳けている。
途中、魚もいるよと教えてあげると、そのうち「わぁ、ここにはたくさん魚がいるんだね」と気づいてくれる。最後は石の下に隠れているカニも発見できるようになる。

実に面白い。
と思いながらわたしは子どもたちを観察する。
見えているつもりで見えていないことってたくさんある。
ただ、石がゴロゴロしているだけとみるか生き物がたくさんいることに気が付くか、それだけでも随分と世界が変わってみえる。
昨今、映像技術も進んで、本物よりも本物に見える的になり、VRなんかもかなり体感として実感できるようになってきているけれど、
それは脳の錯覚というのか、どこまで行ってもそれは疑似体験であって、本物ではないということを忘れてはいけないのだと思う。
そして、やっぱり実際に感じるということの大切さ、触れ合うことの重要さを無視してはいけないのではないだろうか。

バーチャルの世界って、自分が求めている感覚だけを、自分が好きな感覚だけを研ぎ澄ませることができるのでのめり込みやすいのだと思う。
自然相手は何かと不自由だ。
こちらの意図していないことだらけでままならない。
それは時として不快であったり過酷でもある。
自分ではない誰かと交流する時もそうだ。皆、それぞれ。合う合わないがある。こちらが望むようなことにはならない。

生きてるってそんなものだ。
ざっくりだけれど地中のマグマが冷えて固まって長い年月をかけて削られて、転がって、転がってやがては丸くなる。それもいつかは小さくなって、砂みたいになって、またどこかで固まって、岩みたいになって、いつかの誰かの目にとまる。
なぜ、丸くなる?それって地球が丸いから?
なんて水平線を見ながら考える。

あれ?さっきより海の水が増えている?
なんだか流れるの方向が変わった?
太陽の熱って凄いんだね。
ここに、ヤドカリ王国をつくろう!
このヤドカリは大きいから、王様だ。
あっ!つぶ貝がカニに襲われている!!
これ何?ヤドカリが群がっている!食べてるんだ。
などなど
世界が観えてくれば、感じられたら、心は縦横無尽に駆け回り
とめどなく言葉を届けてくれる。
なんだか脳がウキウキしている感じがする。

昔々から受け継いできている生きるということ。
生きる上で感じてきた本能的な部分。
眠らせてしまうのはもったいないような気もする。

都会にあこがれて、何もない暮らしが不便だと思い、自然のよさなど感じずに人工的なものに魅力を感じていた若いころ。
今になってようやく、自然のよさに気が付いた。
そして、感謝している。どんな時も変わらずに受け入れて育ててくれた。
美しさも厳しさも、残酷さも教えてもらった。
ただ、そこにあることさえも。

触れてみたら観えてくる。
ここに自分が生きているということがどれほど素敵なことなのか。

ビジョントレーニングではないけれど
観る、感じるというのはとっても大切なんだと改めて実感の羊でした。

あなたにHAPPYをーそのHAPPYはどんな色の幸せですか?


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