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柳田國男の「橋姫」を脱線する#7 なぜ祖先はこの話を信じたか、産女について『今昔物語集』

はじめに

 ここまで、手紙を託されて運んだことで、幸福になったり不幸になったりするお話を見てきました。
 こうした話型の原因を追究します。

初回↓


08.なぜ祖先はこの話を信じたか

そんならこの類の諸國の話は、支那からもしくは和漢共通の源から起つて、だん〳〵各地に散布し且つ變化したと解してよいかといふと、自分は容易にしかりと答へ得ぬのみならず、また假にさうとしても、何故に我々の祖先がそのやうな話を信じて怖れたかについては、新たに考へて見ねばならぬ事が多い。

「橋姫」本文18

手紙の託送を命ぜられた人がそのために命に係はる程の危險に陷り、それが一轉すればまた極端の幸福を得るに至るといふのには、何か仔細がなくてはならぬ。

「橋姫」本文19

今日の如く敎育の行き渡つた時代の人の考へでは、文字も言語も輕重はないやうに見えるかも知らぬが、田舎の人の十中の九までが無筆であつた昔の世の中に於いては、手紙はそれ自身がすでに一箇不可解なる靈物であつたのである。

「橋姫」本文20

支那でも日本でも護符や呪文には、讀める人には何だ詰らないといふやうな事が書いてある。あたかも佛敎の陀羅尼や羅馬敎の祈禱文が、譯して見れば至つて簡單なのと同じである。「いろはにほへと」と書いてあつても無學文盲には、「この人を殺せ」とあるかとも思はれ、「寶物を遣つてくれ」とあるかとも思はれ得る。

「橋姫」本文21

これがこの奇拔な昔話を解釋するに必要なる一つの鍵である。しかしまだその前に話さねばならぬことがあるから、其方を片づけて行かうと思ふ。

「橋姫」本文22

 第7段の内容は、出典を挙げて説明するのではなく、これまでの内容について、少し整理したものになっています。

 文字が読めない人にとっては、何が書いてあっても、凄いものに見える。畏怖の対象になる。と言うのです。(本文20,21)

 確かに、09『遠野物語』では、六部に手紙の内容を見てもらっています。
手紙を託されたのはいいけれど、その内容を読んで理解する学はないわけです。もしかしたら、聞かれた六部もあんまりわかっていなかったかもしれません。
 それはまるで、落語の「平林」みたいに……。

さて、特に脱線することもないので、次へ行きましょう。
文字が読めないということの前に、片づけておくべき事項です。


09.産女について(前篇)

 近年の國玉の橋姫が乳呑兒を抱いて來て、これを通行人に抱かせようとした話にもまた傳統がある。
 この類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んでゐた。ウブメは普通には産女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓などを夜分に外に出しておくと、ウブメが血を掛けてその子供が夜啼をするなどゝいふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものといふが、別にまた兒を抱いた婦人の形に畫などにも描き、つい賴まれて抱いてやり、重いと思つたら石地藏であつたといふやうな話もある。

「橋姫」本文23

これも「今昔物語」の卷二十七に、源賴光の家臣に平の季武といふ勇士、美濃國渡といふ地に産女が出ると聞き、人と賭をして夜中にわざ〳〵其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれといふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたといふ話を載せ、「此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子産ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いてゐる。

「橋姫」本文24

元より妖恠の事であれば随分怖く、先づこれに遭へば喰はれぬまでもおびえて死ぬ程に畏れられてゐたにもかゝはらず、面白いことには産女にも往々にして好意があつた。

「橋姫」本文25

例へば「和漢三才圖會」六十七、または「新編鎌倉志」卷七に出てゐる鎌倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔この寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より産女の幽魂現はれ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女のために囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。この寶塔は即ちその金を費して建てたものである。夷堂橋の北のこの寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までもあつたといふ。

「橋姫」本文26

加藤咄堂氏の「日本宗敎風俗志」にはまたこんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産の玉と稱する物は、これもこの寺の昔の住持で日行といふ上人、或時途上ですこぶる憔悴した婦人の赤兒を抱いてゐる者が立つてゐて、この子を抱いてくれといふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは氷のやうであつた。上人は名僧なるが故に、少しも騒がず御經を讀んでゐると、暫くして女のいふには御蔭を以て苦艱を免れました。これは御禮と申してくれたのがこの寶物の玉であつた。今でも安産の驗ありといふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。

「橋姫」本文27

この例などを考へて見ると、謝禮とはいふけれども實はこれをくれるために出て來たやうなもので、佛法の功德といふ點を後に僧徒がつけ添へたものと見れば、その他は著しく赤沼黑沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能としてゐなかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は随分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちとなつて現はれたのも、自分にいは意外とは思はれぬ。

「橋姫」本文28


23.産女

 國玉の橋姫で通行人に乳呑兒を抱かせるというのは、07「甲斐口碑傳説」のことを指しています。
 産女は鳥の形か婦人の形をしており、乳呑児は石地蔵になると言います。


24.『今昔物語集』

今昔物語集については前に一度取り上げています(13『今昔物語集』)。

卷廿七 賴光郎等平季武値産女語第卌三
『新訂増補國史大系』第十七卷 p863

今昔。源ノ賴光ノ朝臣ノ美濃ノ守ニテ有ケル時ニ。□□ノ郡ニ入テ有ケルニ。夜ル侍ニ数ノ兵共集リ居テ万ノ物語ナドシケルニ。其ノ国ニ渡ト云フ所ニ産女有ナリ。夜ニ成テ其ノ渡為ル人有レバ産女児ヲ哭セテ。此レ抱〻ケト云ナルナド云フ事ヲ云出タリケルニ。一人有テ只今其ノ渡ニ行テ渡リナムヤト云ケレバ。平ノ季武ト云者ノ有テ云ク。己ハシモ只今也トモ行テ渡リナムカシト云ケレバ。異者共有テ千人ノ軍ニ一人懸合テ射給フ事ハ有トモ。只今其ノ渡ヲバ否ヤ不二渡給一ザラムト云ケレバ。季武糸安ク行テ渡リナムト云ケレバ。此ク云フ者共極キ事侍トモ否不渡給ハジト云立ニケリ。

源頼光が美濃守だった時、武士どもが雑談で話していた。
「渡というところに産女がいて、夜に川を渡ろうとすると、赤子を抱けと言ってくるそうだ」
と言うので、誰か行ってみようという。
平季武が、「俺が行こう」というので、周囲の人は、さすがの武勇でも渡れないだろうと言った。

季武モ然許云立ニケレバ固ク諍ケル程ニ。此ノ諍フ者其ハ十人許有ケレバ。只ニテハ否不諍ハジト云テ鎧甲弓胡錄吉キ馬ニ鞍置テ打出ノ大刀ナドヲ各取出サムト懸テケリ。亦季武モ若シ否不レ渡ズハ然許ノ物ヲ取出サムト契テ後。季武然ハー定力ト云ケレバ。此ク云フ者共。然ラ也遅シト励マシケレバ。季武鎧甲ヲ着弓胡録ヲ負テ従者モ何ニ力可レ知キト。季武ガ云ク。此ノ負タル胡録ノ上差ノ箭ヲー筋。河ヨリ彼方ニ渡テ土ニ立テ返ラム。朝行テ可レ見シト云テ行ヌ。其ノ後此 ノ諍フ者共ノ中ニ若ク勇タル三人許。季武ガ河ヲ渡ラムー定ヲ見ムト思テ窃ニ走リ出テ。季武ガ馬ノ尻ニ不レ送レジト走リ行ケルニ。既ニ季武其ノ渡ニ行着ヌ。

しばらく渡れる渡れないで言い争っていたが、賭けようということになり、
鎧・兜・弓・やなぐい・鞍付きの馬・太刀までも出た。
平季武も「もし渡れなかった相応の物を出そう」というので、早速行くことになった。
完全武装して、川の向こうに矢を立てて帰ってくる、明日の朝確認することで、証拠にするという
言い争った内の三人は、本当に平季武が渡ったか確かめようと、後をつけて行った。

九月ノ下ツ暗ノ比ナレバツヽ暗ナルニ。季武河ヲザブリ〳〵ト渡ルナリ。既ニ彼方ニ渡リ着ヌ。此レ等ハ河ヨリ此方ノ薄ノ中ニ隠レ居テ聞ケバ。季武彼方ニ渡リ着テ。行縢走リ打テ箭抜テ差ニヤ有ラム。暫許有テ亦取テ返シテ渡リ来ナリ。其ノ度聞ケバ河中ノ程ニテ。女ノ音ニテ季武ニ現ニ此レ抱〻ケト云ナリ。亦児ノ音ニテイ力イカト哭ナリ。其ノ間生臰キ香河ヨリ此方マデ薫ジタリ。三人有ルダニモ頭毛太リテ怖シキ事旡レ限シ。何況ヤ渡ラム人ヲ思フニ我ガ身乍モ半ハ死ヌル心地ス。

九月下旬の新月の頃で、真っ暗な中、平季武が川をザブリザブリと渡っている音が聞こえる。
三人が耳を澄ませて音を聞いていると、
向こう岸に着いて、足に付けていた鎧の水を払い、矢を立てたのだろうか、
暫くしてまた川を渡ってくる音が聞こえる。
音を聞いていると、川の中ほどで、女の声で「これを抱け」とはっきり聞こえ、
赤子の泣き声がする。
さらに、生臭いにおいが立ちこめ、三人はあまりの恐ろしさに、
まして川を渡っている人は、死んだような心地なんじゃないかとさへ思った。

然テ季武ガ云ケル様。イデ抱カム己ト。然レバ女此レハクハトテ取ラスナリ。季武袖ノ上ニ子ヲ受取テケレバ。亦女追〻ツイテ其ノ子返シ令レ得ヨト云ナリ。季武今ハ不レ返マジ己ト云テ。河ヨリ此方ノ陸ニ打上ヌ。

平季武は「よし抱いてやろう」と言って、赤子を抱くと、
女は「その子を返せ」と追いかけてくる。
平季武は「返すものか」と三人のいる岸に上がってきた。

然テ館ニ返ヌレバ此レ等モ尻ニツイテ走返リヌ。季武馬ヨリ下テ内ニ入テ此ノ諍ツル者共ニ向テ。其達極ク云ツレドモ此ク□□ノ渡ニ行テ河ヲ渡テ行テ。子ヲサへ取テ来ルト云テ。右ノ袖ヲ披タレバ木ノ葉ナム少シ有ケル。

平季武は館まて帰ってきた。三人も後を追って帰った。
平季武は待っていた連中に、「どうだ、川を渡った上に、赤子まで取ってきたぞ!」
と言って見せたが、木の葉が少しあるだけだった。

其ノ後此ノ窃ニ行タリツル三人ノ者共渡ノ有様ヲ語ケルニ。不レ行ヌ者共半ハ死ヌル心地ナンシケル。然テ約束ノマヽニ懸タリケル物共皆取出シタリケレドモ。季武不レ取ズシテ然云フ許也。然許ノ事不為ヌ者ヤハ有ルト云テナム。懸物ハ皆返シ取セケル。然レバ此レヲ聞ク人皆季武ヲゾ讃ケル。
 此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ為ルト云フ人モ有リ。亦女ノ子産ムトテ死タルガ。霊ニ成タルト云フ人モ有リトナム語リ伝ヘタルトヤ。

後をつけて行った三人が証人となり、話を聞いた人たちもゾッとした。
それで賭けに勝った平季武に約束通り物を渡したが、
「言ってみただけだと」と言ってすべて返したので、平季武を褒めたたえた。
産女は狐だとか、霊だとか言われている。

兵どもが肝試しをするお話ですね。肝が座っている平季武と産女のやり取りは、勢いがあって面白いです。

お化けが出ると噂の場所に、肝試しに行ってみたら、本当に出た。なんて、こんな時代から既にある形式なんですね。

このお話では、産女は狐だとか、霊だとかと言われています。
偽物の赤子が木の葉だったというのも、今でもみられる狐や狸の騙し方ですね。


25.障る

妖怪は怖く、喰われぬまでも畏れられていました。
振り返ってみますと、

07「甲斐口碑傳説」に「びつくりして一目散に飛んで歸り、我が家の玄關に上るや否や氣絶した云々。」
12『趣味の傳説』では「馬子は大きに驚き、命あつての物語と宙を飛んで馳せ歸りましたが、其のまゝ發熱して五六日は頭があがらなかつたと申します。」
13『今昔物語集』27-22「其ノ後遠助心地不レ例ズト云テ臥シヌ。妻ニ云ク。然許不開マジト云シ箱ヲ。由旡ク開キ見テトテ。程旡クニケリ。」

とありました。
気絶、発熱、死と、畏れるには十分な結果が出ています。


おわりに

今回は長くなるので、途中ですがここで切ります。
手紙を託されて運ぶという話には、教育が関係していると言います。
文字が読めない書けない人には、「手紙」という存在が既に霊物であり、良いものにも悪いものにも捉えられるというのです。

そして、最初に確認した、橋姫が乳呑児を抱かせてくる物語は、日本では産女と呼んでいたことから、産女の話を確認します。
今昔物語集は、ツワモノが肝試しをするという、ちょっと面白い話でした。他の産女はどんな内容なのでしょうか。

また次回~


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