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柳田國男の「橋姫」を脱線する#1 中心となる話『甲斐国志』『裏見寒話』

 パソコンの古いデータを整理していたら、7年近く前に、柳田国男の「橋姫」を調べて、資料をセッセと用意していたものが出てきました。
 このまま眠らせておくもの勿体ないので、少し整えてここに挙げていこうという所存です。


はじめに

どう脱線するのか

「橋姫」の最初の文章に

私は學問の嚴肅を保つために、煩はしいが一々話の出處を明らかにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、かういふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。

と書かれているように、この國男の「橋姫」には、「~という話が、〇〇という本に書かれている」「◇◇という本にこんな話がある」といった形で、出典が示されています。

この出典をいちいち特定して、その文献も読みたい!
ということで、「橋姫」に引用言及されている資料をたどり、より多くの情報を手にして、「橋姫」を100倍楽しむための資料集になります。

時代を超えた非常に幅広い文献が取り上げられているので、単に橋姫について詳しくなるというだけではなく、こんな文献があるのか、こんなジャンルの資料があるのかと、調べていた当時はワクワクしましたし、日本語表記の多様さも感じられます。
関連文献の面白さに気づいて、脱線していく面白さを、少しでも共有できるといいなと思っています。


「橋姫」の基本情報

大正七(1918)年、國男四十二歳の一月、女性向け雑誌「女學世界」十八卷一號の附録に掲載されたのが「橋姫」です。
女性向けに書かれたからか、今読んでもさほど難しくない文体だと思います。


 私が引用する「橋姫」の本文は、当時作成していたもので、どうやら以下の二冊を見ていたようです。
 青空文庫は、当時からずっと作業中なんですよね。

  • 筑摩書房『定本柳田國男集』第五巻

  • 小山書店(昭和9年6月)『一つ目小僧その他』

『定本柳田国男集』第5巻,筑摩書房,1962. 国立国会図書館デジタルコレクション
柳田国男 著『一目小僧その他』,小山書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション

公開されていたので添えておきます


「橋姫」全体を私に段分けすると、次のようになります。

  1. 導入

  2. 中心となる話

  3. その変形

  4. 手紙を託すこと(幸福譚)

  5. 手紙を託すこと(不気味譚)

  6. 手紙を託すこと(歴史的側面)前篇
    後篇

  7. なぜ祖先はこの話を信じたか

  8. 産女について
    後篇

  9. 謡いについて

  10. 他方を嫌うこと忌むこと

  11. 嫉みから通婚の忌

  12. 通婚の忌から縁切

  13. 京都の例

  14. 結論

  15. おわりに

この段分けに沿って「橋姫」を読んでいきます。
また、引用に合わせて本文に通し番号を附し、出典と対応させています。

さて、それでは読んでいきましょう。


01.導入

橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つてゐた美しい女神のことである。地方によつてはその信仰が早く衰へて、その跡にいろ〳〵の昔話が發生した。これを拾い集めて比較して行くと、すこしづゝ古代の人の心持を知ることが出來るやうである。私は學問の嚴肅を保つために、煩はしいが一々話の出處を明らかにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、かういふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。

「橋姫」本文01

これは導入部分なので特に付け加えることはありません。
以下、議論の中心となる話が提示されます。


02.中心となる話

 山梨縣東山梨郡國里村の國玉組に、俗に國玉の大橋と稱する橋がある。大橋などゝいふ名にも似合はぬわづかな石橋で、甲府市中の水を集めて西南に流れ、末は笛吹川に合する濁川といふ川に架つてゐる。今の國道からは半里ほど南であるが、以前はこの筋を往還としてゐたらしい。一説には大橋ではなく逢橋であつたといひ、また行逢橋といふ別名もある。元は山梨巨摩八代三郡の境であつたと「甲斐國志」にあるが、果してさうか否かは知らぬ。

「橋姫」本文02

 五百六十年前に出來た「裏見寒話」といふ書の第六卷に次のやうな話がある。この橋を通行する者が橋の上で猿橋の話をすると必ず怪異がある。猿橋の上でこの橋の話をしても同樣である。昔武藏國から甲州へ來る旅人があつた。猿橋を通る際にふと國玉の大橋の噂をしたところがそこへ一人の婦人が出て來て、甲府へ行かるゝならばこの文を一通、國玉の大橋まで屆けて下されといつた。その男これを承知してその手紙を預つたが、如何にも變なので途中でそつとこれを披いて見ると、中にはこの男を殺すべしと書いてあつた。旅人は大いに驚き早速その手紙を殺すべからずと書き改めて國玉まで携へて來れば、この橋の上にも一人の女が出て居つて、如何にも腹立たしい樣子をしてゐたが、手紙を開いて見て後、機嫌が好くなり、禮を敍べて何事もなく別れた。とりとめもなき話なれど國擧りてこれをいふ也とある。

「橋姫」本文03

 また今一つの不思議は、この橋の上で謠の「葵の上」を謠ふとたちまち道に迷ひ、「三輪」を謠ふと再び明らかになると、これも同じ書物の中に書いてある

「橋姫」本文04


02『甲斐國志』

『甲斐國志』は、甲府勤番支配の松平定能が三名の編集員と共に、村役人や寺社から資料を収集し、文化11(1814)年に完成させた甲斐国の地誌です。幕府に献上した献進本が内閣文庫に現存しています。

國玉の大橋は逢橋や行逢橋という別称があったといいます。
まず『甲斐國志』の国玉村の項目に次のようにあります。

本村ハ第三宮国御魂ノ神鎮座アル処ナレハ村名ニ唱フ三郡ノ中央ニ当ル又板垣庄ノ内ナリト言伝ヘタリ里吉ノ東ニ隣ル南ハ高橋村ヘ拾四五町若彦路ナリ逢橋等の事ハ古蹟部神社部ニ委シ

巻之九 村里部第七 山梨郡中郡筋 国玉村 p182
復刊「甲斐國志」甲斐国志編纂会(昭和46年8月)天下堂

詳しいことは書かれていませんが、古蹟部と神社部に詳しく書かれているそうです。
古蹟部の該当部分を見てみましょう。

一 国玉(国玉村)三郡ノ中央此処ナル故ニ国御魂ノ神ヲ祀リ本州ノ第三ノ宮ト称ス(神社部ニ委シ)本村ニ逢橋ト云アリ濁河ニ架ス里人大橋トモ呼ベリ東西表門山梨青沼等ノ郷中ヨリ汚流ノ来集ル処ニテ湿地沼多シ古キ伝ヘニハ橋長サ百八拾間ニ及ベリ追年湿地ノ増ルニ随テ間数漸々ニ延タルトナリ此処ハ若彦路ニテ行旅ノ会フ所三社神幸道モ此ニ相逢故行逢橋トモ名クト口碑ニ伝ヘタル歌アリ
 はるる夜はいかはかりかはさ江わたる霜と月との行逢のはし

巻之四十三 古蹟部第六 山梨郡中郡筋 p648
復刊「甲斐國志」甲斐国志編纂会(昭和46年8月)天下堂

ここに、「大橋」「逢橋」「行逢橋」の三つの名称が出ています。
また、神社部では、国玉明神の項目に境内の施設として「行逢橋五条天神祠」が挙げられており、行逢橋に関する伝説が述べられています。

一 国玉明神 国玉村ニ鎮座ス御朱印神領六拾壱石三斗余社地弐千六百坪黒印屋敷千三百八坪
社記曰祀ル所ハ大己貴命也成務天皇ノ時出現シ給フ国玉社或ハ玉諸神社トモ称ス本州ノ第三ノ宮ニシテ上古ヨリ国守建立ノ社ナリ
信玄ノ時ニ至リテ殊ニ崇敬アリテ社壇 幣殿 玉垣 鳥居等造営アリシガ天正十年ノ乱ニ兵火ニ罹リテ赤地トナル
翌年四月廿四日国玉 巨世 上阿原 塩部 酒依ニテ百三貫文先規ノ如ク社領寄附シ給ヒ殿舎御再興アリテ酒掃祭祀等永ク旧ニ復スルコトヲ得タリ
其後モ領主ヨリ数度造替修復アリシト云
本殿 幣殿 参籠所 玉垣 御供所 勧請所 石玉垣鳥居 神池 御手洗川 馬場 御井 玉杉祠 一ノ鳥居蹟 東ノ標木 西ノ標木 行逢橋五条天神祠 往古ハ行逢橋ノ森トテ他方ニモ其名聞エタル所ノ由土人ノ口碑ニ伝ハル歌アリ(甲斐名所和歌類聚ニ読人不知)
      逢はしのもりの木かけにひとよねはさそつらからんあすの猿橋
逢橋昔ハ長百八拾間アリ因テ大橋トモ云今ハ僅ニ四五間ノ北橋ナレトモ旧慣ニ仍リテ御普請所ナリ土人相伝ヘテ此橋ニテ都留郡猿橋ヲ語ラス猿橋ニテ此橋ヲ語ラストナン彼ハ其深キニ矜リ此ハ其長キニ矜ル故カ又猿去訓近シ逢ニ去ヲ忌ムノ義カ又院本ノ中ノ野宮ノ一齣ヲ謡フ時ハ必ス怪事アリト云伝ヘタリ何ノ故ナルヲ知ラス山川部古蹟部併看ルヘシ

巻之六十 神社部第六 山梨郡中郡筋 p891
復刊「甲斐國志」甲斐国志編纂会(昭和46年8月)天下堂

逢橋では猿橋のことを口にせず、猿橋では逢橋のことを口にしないことについて、それぞれ深さと長さを誇っていたからではないかとされています。また、「猿」と「去る」の読みが同じで、「逢う」とは逆になるので、それを忌み嫌ったからかとされています。
さらに、謡曲「野宮」を謡うと怪事があると言います。
この辺りは03『裏見寒話』と関連する内容ですね。

ついでに、山川部も見るべしとありますので、これも探してみました。
山川部第八の濁川の項の後ろの方に、大橋に二段の細注で書かれています。

一〔濁川〕……
……大橋〈里吉、国玉両村ノ界ニ在リ。若彦路ノ由ル所ノ長凡百八拾歩ニ至ル州中第一ノ長橋ナリ。行人之ヲ過グル者猿橋ノ談及演劇中ノ野ノ宮ヲ謡フ事ヲ禁ス。若シ犯ス者アレハ必ス怪異アリト云。其故ヲ知ラス。或ハ曰大橋ハ逢橋ナリ。三社ノ神輿此処ニテ行逢ナリ。猿ト去ト訓相同シ逢橋ニ忌ム所以ナリ。古蹟部ヲ併セ看ベシ〉

巻之二十七 山川部第八 山梨郡中郡筋 p318
『甲斐叢書』第10巻,甲斐叢書刊行会

ここには大橋で猿橋の話と野宮を謡うことを、怪異があるので禁止しています。「猿」と「去る」の訓から忌み嫌うことも書かれており、短くまとまっていますね。

当時作成した本文は、句読点がなく頗る読みにくいです。
今探すと、幾つか見つけることができるので、ここに添えておきます。

松平定能 著『甲斐国志』上,甲陽図書刊行会,明44,45. 国立国会図書館デジタルコレクション
『甲斐叢書』第10巻,甲斐叢書刊行会,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション


03『裏見寒話』

『裏見寒話』は、これも甲府勤番士の野田成方が、在任後30年間の見聞を記録したもので、宝暦2(1752)年の序文があります。さらに、成方の三男正芳が追加と付録を作成しています。

国男は「第六巻に」と述べていますが、触れている内容は、「巻之六」の後の「追加」にあります。

○國玉村の大橋
國玉村に小き橋あり。大橋と名づく。此橋上にて猿橋の事を云へば怪異あり、猿橋にて大橋の事をいへば又怪異ありと。其謂を尋るに、昔江戸より來る人あり、猿橋を渡る時、大橋の噂をする一婦人出て云、甲府へ行かば此文一通國玉の大橋へ届け玉はれと。彼人諾して此文を受取ると雖も怪しく思ひ、途中にて密かに披き見れば、此人を殺すべしとの文也。旅人大に驚き、此人殺すべからずと書直して園玉へ持參せしに、又一婦人出て憤怒の氣色凄しく、則此文を見るに殺すべからずとあるに依て、欣然として其文を届けたる謝渡禮を云て恙なかりしとぞ。實に笑ふべきの説也。併國俗の專ら説する處也。

追加 怪談 135コマ
甲斐志料刊行会『甲斐志料集成』3,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション

若干文言が異なりますが、内容は全く同じですね。
「此人を殺すべし」の手紙は、さすがに恐ろしいです。


04『裏見寒話』

『裏見寒話』に続けて、謡曲「葵の上」を謡うと道に迷い、「三輪」を謡うと明らかになる話に触れています。
これは先の「○國玉村の大橋」の次の項目にあります。

○三輪の雪隱
西條道にあり。此内にて三輪の謠を諷へば怪異ありと。又國玉の大橋にて葵上の謠を唄へば道を失ひ、三輪を謠へば道明らかに知るべしと。又附甲斐の説也。

追加 怪談 135コマ
甲斐志料刊行会『甲斐志料集成』3,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション

 ここでは、西条道に三輪の雪隠という伝説があって、謡曲「三輪」を謡うと怪異があるといいます。それに関連して、国玉の大橋では、葵上と三輪のことが紹介されています。

また、探していると、単に怪異ありとして紹介されている一文もありました。どうもこの橋には昔から何かあるようですね。

一二三の宮
…又、國玉村に大橋と土橋あり、至て小き橋なれ共此所には怪異有と云。…

卷之二 社閣 77コマ
甲斐志料刊行会『甲斐志料集成』3,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション


能・謡曲

『甲斐国志』に「野宮」、『裏見寒話』に「葵上」「三輪」が出てきました。謡曲の全文を上げるには長いですし、どこがどう関わっているのかわかりませんので、ざっくり内容だけ確認しておきたいと思います。

「野宮」は『源氏物語』を題材にしたものです。
野宮を訪れた僧侶の前に、光源氏が六条御息所を訪ねた9月7日を偲んで亡霊の御息所が現れます。
御息所は、源氏に捨てられた寂しさや、賀茂祭のときに葵上との車争いで屈辱を受けたことを語ります。

「葵上」も『源氏物語』を題材にしており、六条御息所が葵上への恨み、(源氏をとられたこと、賀茂祭での屈辱)から、病床の葵上のもとに怨霊となって現れ、連れて行こうとするのを、横川小聖の祈祷によって退治されるお話です。

この二つはどちらも怨みのある六条御息所がシテになっており、共通性が窺われますね。

「三輪」は玄賓僧都を毎日尋ねる女が、実は三輪明神だったというお話です。三輪の神は大物主神なので、男神なのですが、中世には女体説もあったそうで、女体化二次創作はこの頃からあったんですね。

いずれも女性が登場しています。
橋の伝説でも婦人ですから、関係がありそうです。

想像するに、負のイメージがある「野宮」「葵上」を謡うと負の現象が起こり、正のイメージがある「三輪」を謡うと、正の現象が起こると結びつけられたのではないでしょうか。しらんけど。

おわりに

以上のような感じで、柳田国男の「橋姫」を読んでいきます。
全部で15段あるので、先は長そうです。
一応資料だけは集めてあるのですが、流れや考察的なものを作っていなかったので、整理していると存外時間がかかるもんですね。
頓挫しないように頑張りたいと思います。

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