夜の魚
寂しがり屋の話です。風変わりな女性を描こうとして書き始めたのですが、なんでか静かな話になりました。お時間ありましたらお読み下さい。
真昼の空に白い光が短く尾を引いた。
無音の雷。
「雨でも降るのかな」
僕は呟いて公園のベンチから腰を浮かせた。歩きながら時計を見る。12時52分。余裕で昼休み中に会社へ戻れる。通りに出て古ぼけたビルの前で立ち止まった。カードキーを兼ねた社員証を取り出そうとポケットを探る。途端にさあっと血の気が引いた。
財布がない。
いつから、と頭を巡らせた。コンビニでサンドイッチを買った時には確かにあった。公園へ行く途中で本屋に寄って立ち読みをした時は、どうだったろう。日当たりの良いベンチでサンドイッチを頬張った時は?
慌てて踵を返すと、公園のベンチに女性が座っていた。年の頃は三十代半ば、肩で切りそろえられた髪は艷やかで、黒目がちの目が可愛かった。
「あの。ここに財布、ありませんでしたか」
ためらいつつ声を掛ける。女性はよく通る声で、「新手のナンパみたいですね」と返した。
「いえ。そういうわけでは」
思わず言葉を濁したけれど、彼女は意に介さない様子で、
「但馬隼人さん」
と、僕の名を呼んだ。
「‥どこかでお会いしましたか?」
「いいえ」
澄ました顔で首を振ると、腕をこちらへ伸ばした。差し出された手には見慣れた財布があった。
「失礼かと思いましたが中身を確認しました。暫く待って現れなかったら交番に届けるところでした。社員証の顔写真の方が格好いいですね」
彼女は屈託なく笑った。
午後から降りだした雨は夕方になってもアスファルトを叩いていた。最寄りの駅まで早足で行くと、改札口の辺りに人待ち顔の女性が佇んでいた。声を掛けると昼間と同じく屈託なく笑った。
あの後、財布のお礼に何かをと申し出た僕に彼女はためらうことなく「夕飯をおごって下さい」と言った。
「初対面の男に飯をおごれとは中々変わった人だ」
「そうですか?」
彼女はビニール傘を開いて僕の頭上にかざす。
「アイアイ傘です」
「はあ」
変わっている上に気恥ずかしい事を言う人だった。
食事は存外楽しかった。何より彼女はなんでも美味しそうに食べた。これは歯ざわりが良い、こちらは淡白だけれど味わい深いと、ひと品ごとに感想を述べては嬉しそうに箸を進めた。
「そういえば昼間、晴れてるのに雷が光ったんだけど、きみは見た?」
「ええ。一瞬でしたけど白くくっきりと」
「まさに晴天の霹靂だね」
「惜しいです。霹靂は雷の轟く音のことです」
「そうなの?」
「だって、光るだけじゃ驚かないでしょう?」
「なるほど」
「真昼の雷にことわざがあるとしたら、儚い感じじゃないでしょうか」
確かに昼間でも見えるほどの強い光だった。けれど、刹那の事、別の方角を向いていたらきっと見落としていた。たまたま見えただけだと思えば幻みたいに儚かった。
店を出ると雨は止んでいた。互いに礼を述べて頭を下げる。顔を上げると目が合った。名残惜しさがこみ上げたけれど気付かないふりをした。
小さな背中を見送って、遠ざかるヒールの音に背を向ける。不意に、
「但馬さん」
よく通る声が僕を呼び止めた。
「お昼はいつもあの公園で?」
「ああ、まあ。時々」
「じゃあ、また会えますね」
彼女は白い歯を見せた。
それからも時々、二人で食事をした。
昼の時もあったし、夕方の事もあった。
月のきれいなある晩に、彼女が空を指差した。指し示されたはるか先には、夜の真ん中に置き去りにされたみたいに瞬くひとつ星。
「あれはフォーマルハウト。南うお座で一番明るい星です」
「南うお座?うお座じゃなくて?」
「ええ。まわりに星がなくてさびしそうだけど、暗いだけで近くにもちゃんと星があるんです」
そう言って不意に僕の腕にしがみつく。
「南うお座はみずがめ座の水を全部飲み干そうとしているんです」
「そりゃまた、無謀だね」
「泣きたくなったら見上げてください。ひとりぼっちだけど一人ぼっちじゃない、あの星を。きっと、あなたの涙も飲み干してくれます」
彼女はそっと目を閉じた。
初めてのキスから程なくして、僕の部屋の洗面所に歯ブラシが二つ並ぶようになった。二人の距離が近づいてからも、彼女は自分の事を殆ど話さなかった。そのくせ僕の事は根掘り葉掘り聞き出して、昔の彼女の話にヤキモチを焼いたり、口をすぼめて「ひとめぼれだったんですよ」と拗ねたりした。
「ひとめぼれってなにが」
「私が。但馬さんに」
僕は出会った日のことを思い出す。
「‥写真の方がお好みでしたっけ」
「実物もほどほどカッコいいです」
彼女はいたずらっぽく笑った。
ある晩、彼女は窓辺に佇むと囁くように切り出した。
「十九の時に恋をしたんです。大好きだった。一緒になろうって言ってくれた。けど、結局別れました。誰かのそばは暖かくて安らぎもするけど、とても寂しくなるから」
そうして取り残されたように輝く星を指差して、
「私の故郷はあの星よりも遠いんです」
と、遠い星から来た人みたいに言った。
「生きてるうちには到底辿り着けないね」
僕が曖昧に笑うと、
「そうですね」
と、淋しそうに笑った。
「小さな頃から根無し草でした。引っ越しばかりで。親の仕事の都合ってやつです。友達も知り合いもすぐ縁遠くなってしまう。私には故郷と呼べるものがない。故郷って場所じゃなくて人との記憶だと思うんです」
不意に彼女は棚の置き時計に手を伸ばした。針を逆に回しながら淡々と言葉を紡ぐ。
「時計の針って、時間を切り刻んでる感じがしませんか。長針と短針が重なる度に。そうして切り刻まれた時間が部屋に降り積もっていく。こんなふうに」
徐ろにクッションを手に取ると、引き裂いて天井に放り投げた。羽毛が部屋中に散らばった。まるで雪のように軽い羽根が、ふわりと絶え間なく、彼女の肩に足元に降り積もる。
「こんなふうに、時間に埋もれていくんです。重さがないから気付かなくて、いつの間にか身動きが取れなくなる」
羽根をまとった彼女は静かな眸で僕をまっすぐに見据えた。
「ずっと思ってた。どこかに帰りたいって。私、もっと早くにあなたに会いたかった」
僕が二の句を継ぐより早く、
彼女は僕の唇を塞いだ。
部屋中に散らばった羽毛はいくら掃除しても机の隅や廊下の端に不意に現れて、彼女と過ごした時間を思い出させた。見つける度に、かさぶたを剥がすみたいに胸が痛んだ。
真昼の雷と同じで、彼女も幻みたいなものだった。今日もまた、彼女の後ろ姿が足りない窓辺が暮れていく。
僕はひとり、夜の魚が泳ぐ空を仰いだ。
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