見出し画像

はじまりのキス、終わりのキス(3)


恋の話です。六回に分けて投稿します。一つの記事につき1500〜1800文字です。
読めるところまででも読んで頂けたら嬉しいです。

前のページ) (初めから読む)

 冬に向けて日が短くなり始めていた。
 彼との関係は相変わらず宙ぶらりんだった。暇だから遊びましょうと私が話を振ると、やはり気乗りしない様子で応じた。 
 彼は言葉の端々に、ここから先は立ち入り禁止ですと透明な規制線を張っていた。煙草の煙はすり抜けるのに私にとってはガラスよりも強固だ。気が進まないなら断ればいいのにそうしないのは、端からいいお友達だからだろうか。いつか披露の招待状でも渡されやしないかと日々戦々恐々とする。

 肩を並べて公孫樹の並木道を歩いた。私は藍色に染まり始めた空を見遣って一番星を探した。
「秋の日暮れは釣瓶落としですね。少し前までこの時間はもっと明るかったのに」
 彼は口を噤んで空を睨んでいた。もとより相槌を打たない男だけれど、その横顔はなんとなく精彩を欠いた。
「どうかしました?」
「別にどうも」
「ならいいんですけど。ところで釣瓶落としってなんでしょうね」
「妖怪じゃないですか」
「もしかして馬鹿にしてます?」
「まさか」
 彼は肩を竦めると真面目くさった顔で私の背後を指差した。
「いるんですよ。木の上から落ちてきて人を襲うんです。ほらそこ」
 馬鹿馬鹿しいと思いながら振り返った。すっかり黄色く色づいた公孫樹並木が続いているだけだ。冗談なんて珍しい。熱でもあるのかと訝りつつ向き直ると、彼の顔が睫毛の数を数えられそうなほど間近にあった。鼻先が触れた気がして、心臓がまるで体の中に別の生き物を飼っているみたいに暴れた。痛いくらいに早鐘を打って胸の奥から飛び出しそうだった。
「襲われないようにしてくださいね」
 何食わぬ顔で言うと背を向けて歩き出した。後ろ姿が陰っていく。眺めているうちに怒りが沸々とこみ上げてきて、私は叫んだ。
「どういうつもりですか!」
 彼は肩越しに振り返った。表情が夕闇に霞んで読み取れない。
「別にどうも」
「からかってるだけですか。なんとも思いませんか、私の事」
「何か思って欲しいですか」
 質問に質問で返すなんて卑怯だった。
「私とあなたの距離は縮まりませんか」
 彼は押し黙った。空の端が音もなく藍色に塗り替えられていく。一秒が永遠ほど長くて目眩がした。全身が心臓になったみたいで息が詰まる。
 散々待たされた挙句返ってきた答えは、
「今夜限りならいいですよ」
だった。
 今度は怒りで目がくらんだ。そんな気、ちっともないくせに。私は腹立ち紛れに言った。
「なんですか今夜限りって。明日からはどうなるんですか」
「どうもなりません」
「今までと変わらないってことですか。それってなんの意味があるんですか」
「別になにも」
 彼は淡々とした声色でのらりくらりと躱した。いつだって私を手玉に取って、答える側から逃げる。結局彼は何ひとつ答える気がない。
「馬鹿にしないで。酷い男だって幻滅させて、怒らせて、諦めさせる気なんでしょう。あなたのやり口はいつもそうです。そういうのって最低です。どうしてはっきり振らないんですか」
 きっと彼は笑っていた。私はためらわずに進み出て、彼の目をまっすぐ見据えて担架を切った。
「自分の言葉に責任を持って下さい。男に二言はなしですよ」

 その夜、初めて彼と二人きりで飲んだ。ビールにカクテルにウイスキー。無節操にグラスを空けていく。隣に座る彼のシャツが触れるかどうかの距離感に緊張しながら、ゴツゴツした肩にもたれ掛かりたいのを必死で堪えた。
 グラスに残ったカクテルをぼうっと眺めていたら、見透かしたように無言でメニューを手渡された。指先が触れたけれど彼は動じる気配もなくて、私は仏頂面でグラスを煽った。
「そろそろ終電ですね」
 彼がぽつりと呟いた。腕時計を確かめると深夜零時を回っていた。程々に記憶が飛んでいて、ふと気付けば店の外だった。彼のシャツの裾を掴んで覚束ない足取りで河原を歩いた。盗み見た横顔は憎たらしいほど平然としていた。
 招き入れられた彼の部屋には物が殆どなかった。小さな折りたたみ机と布団以外には目ぼしい調度品も見当たらず、生活感がすっかり削ぎ落とされていた。テレビはおろか冷蔵庫すらない。
「なにもありませんね」
「ここにあるのは最低限必要なものか不要なものです」
 淡々と言うと、不意に視線を合わせた。数瞬、生真面目な眸で私を見つめた。確かめるように頬に触れ、指先を耳の下へと滑らせる。
 彼はそっと睫毛を伏せて、唇が触れるか触れないかの微かなキスをした。

1797文字 5枚と13行

前のページ)  (3)  (次のページ

お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。