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はじまりのキス、終わりのキス(4)

恋の話です。六回に分けて投稿します。一つの記事につき1500〜1800文字です。
読めるところまででも読んで頂けたら嬉しいです。

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 目を醒ましたまま、うたかたの夢を見るようだった。
 ついばむような口づけを重ねるうちに吐息はやがて熱を帯びて、唇で深く繋がっていく。その先にあるものを幾度か想像したことがある。彼の細長くてきれいな指が私に触れる度に、劣情で胸が疼いた。
 事が済めばすぐに背中を向けてしまう無粋な男だとばかり思っていたけれど、まるで欲のさなかにいるような濃密なキスをした。そうして私をきつく抱きしめると、少し苦しげに息を吐いた。

 明かりのない部屋に身を横たえて、肩を寄せて暗い天井を見上げていると、時間のない夜の底にいるみたいだった。カーテンの隙間から車のライトが滑り込んで夜を切り裂く。私は眠りを遠ざけたくてしじまを解いた。
「昼間はずっと浮かない顔でしたね。何か悩みでも?」
「誰にでも大なり小なり悩みはあります。あなたにもあるでしょう」
「当面の悩みは目の前の男が何を考えているのか分からない事です」
 彼はにやりと笑うと軽薄に言った。
「きっと大した事は考えてません」
「聞かせて下さい。あなたの事。何でもいいです。好きな色とか好きな場所とか。どうせ今夜限りの事です」
 自分で言ったくせに刃物で切りつけられたみたいに胸が痛んだ。
 彼は私が問う度に静かに答えた。故郷の灰色の空の事、雪で閉ざされた冬の事、真っ暗な空に光る川の事。やがて天井に視線を投げかけて思案するように黙ると、笑っているとも困っているともつかない表情で切り出した。
「僕の父は絵に描いたようなお人好しでして。いつぞやもお金に困っている人に財布の中身をそっくり渡したと、あっけらかんと言ってました。人懐こくて旅先でも通りすがりの人とすぐ打ち解けてしまう」
「良い方ですね」
「ええ。母と連れ添う位ですから相当です。母は悪知恵の働く女でして、人を見下して顎で使うんです」
「あなたはお母さん似ですね」
 私が素っ気なく言うと彼はにやりと笑った。
「あなたは歯に衣着せませんね。愚直過ぎていっそ清々しい」
「小馬鹿にして頂き恐縮です」
「褒めてるんです」
 彼は視線を重ねて柔らかに笑った。笑顔があんまり優しくて泣きそうになった。私は弱味を見せたくなくて慌てて心の手綱を引き絞った。
「彼らは両極端でしてね」
「両極端、ですか」
「白と黒くらいでしょうか。ただ、結局、似た者同志です」
 彼はやはり曖昧な表情で続けた。
「ある折、母に女性とお酒を飲む店へ連れて行かれましてね。店の女の子たちは母を桜木と呼んでいました」
「桜木さんでは‥ないですよね?」
「ええ。母は店の女の子たちと顔見知りのようでした。彼女たちは僕に興味津々で、息子かと冗談めかして訊いてきました。母はただ笑っていました。これは憶測ですが、向こうでは独り身と公言しているか、桜木さんという方と夫婦という話にしているんでしょう」
 彼が口を噤むと部屋を満たす夜の気配が一層濃くなった。虫の音だけが秋の寂寥を謳うようにちりりと細く聴こえた。私は言葉を選び切れなくて彼の肩先に口付けた。
「つらかったりしますか」
「そういうのとは違いますね」
 彼は静かに睫毛を伏せた。
「父は祖父と暮らしていましてね。母の父に当たる人です。普段は温厚な祖父ですが、時々神経が昂って我を失ってしまうんです。ある時、出先で具合を悪くしましてね。父はタクシーを手配する際、電話口で秋山と名乗りました。…おかしな話です。巡り巡って周囲に知れて、祖父が口さがなく言われたら可哀想だとでも思ったのかも知れません」
 彼は徐ろに私の顔を覗き込むと、泣く子を諭すみたいに優しく囁いた。
「白と黒をいくら混ぜても灰色にはなりません。それこそオセロの石のように片方の色が表に出るだけです」
 謎かけのようで私は小首をかしげた。彼は優しい顔のまま続けた。
「僕はもうすぐこの町を出ます。先だって来の仕事で相手先からお声がけ頂きました。待遇もあちらのほうがいいですし、栄転です。荷物は大方、向こうに送りました。あなたと会うのも今日限りです」
 唐突に突き放されて私は内心言葉を失った。温和に振る舞ってみせたって彼はやはり彼だった。私はこめかみが痛くなるほど奥歯を噛みしめて、笑って見せて、涙を堪えた。

1799文字5枚6行

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