見出し画像

寛容のパラドックスと多様性

らしいです

5月も終わりに近づいてますが、5月のnote特集テーマは"多様性を考える"らしいです。こんにちは、氷川です。今日はそんな話をしようと思います。

私は人類学とか自然科学系にはあんまり明るくないので、人間の多様性とか生物の多様性とかそういう話をするつもりもありません。もちろん、LGBTQQIAAPPO2Sとかいうのに触れるつもりもありません。

なぜか。多様性を考えるうえでどうしても社会における多数派と少数派という区切りをしてしまいがちですが、私は多様性を尊重する社会≠少数派を尊重する社会だと思います。なぜか。多様性、それは個人ひとりひとりの人格が粒で際立って全員が自分らしく生きることのできることのはずです。つまり、この議論においては多数派など存在しない(みんな1なので)という前提を共有することが必要だと思います。そのうえで、対象となる社会で自分らしく生きれていないグループを取り上げてその処遇を改善するというプロセスであることを忘れてはならないと思います。

だから、私は特定のグループを取り上げることはここではしません。

そんな言葉の定義と前提条件を共有したところで、私は皆さんとは違った視点から多様性を考えようと思います。それは客観的立場から感じるいまの多様性を尊重する社会を実現するための運動に対する疑問です。

皆さんは"多様性"という言葉に違和感を覚えませんか?

ここで、表題にもある"寛容のパラドックス”について触れます。イギリスの哲学者であるカール・ライムント・ポパーが提唱したとされる説です。

無制限の寛容は確実に寛容の消失を招く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。

『開かれた社会とその敵』第1巻より

つまりは、"俺は他者に寛容ではない!俺以外人間じゃない!だからお前らは死ね!"っていってるヤベーやつにも寛容であろうとすると、寛容であろうとしたコミュニティはヤベーやつに破壊されて終わりだよ~。ってことだね。多様性という概念においても同じことが言えますね。"俺は多様性を認めない!日本男児かつ四年制大学を卒業したものにしか人権はない!"みたいなこと言ってる人も多様性に含むと、完成した多様性を尊重する社会の中になぜか多様性を認めない人がうじゃうじゃいることになるって言うヘンなことが起きるわけですね。

そもそも、多様性を否定してる人って自己の人格を否定してる人だと思うのでありえない話(よっぽどM?)だと思うんですけど、これで私が多様性を否定してる人を否定する人になると私が多様性を否定してる人になるらしいので、やめておきます。

で、ここまで読んでいただいたみなさんに、もう一回聞きます。ここから上の2つのパラグラフを読んで、あなたは違和感を覚えませんか?

私はこの違和感に対してアンサーを出そうと思いましたが、底辺の高校三年生の終わってる脳みそでは答えが出ませんでしたので、以下に申し訳程度の私見を載せておきます。参考になれば幸いです。いや、受験勉強しろよ。

先ほど出した哲学者カール・ポパーは、同じ著作でこのように述べています。

ゆえに我々は主張しないといけない。
寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

私の答えもこうです。多様性を尊重しない人々を多様性を尊重する社会に組み込む必要はないと思います。なぜなら、真の多様性の尊重は自己の社会的存在価値の保証に直結しているからです。多様性を否定するなど、真の語義ではありえないはずなのです。

私は個がおのおの生かされる環境において、自分以外の個を否定する個体が存在した場合、それは排除されてしかるべきというのはあながち間違いではないと思います。しかし厄介なことに、人間社会においてそれは、"自分以外の個を否定する個体"が"自分に似た者"でグループを組み、"自分と共通の主張(ないし特徴)をもつ集団以外を否定する集団"にシンカします。

そして皮肉なことに、"自分と共通の主張(ないし特徴)をもつ集団以外を否定する集団"は往々にして多様性を尊重する社会を目指そうって主張してたりする気がします。異なる社会的スタンスから多様性の尊重を主張する複数のグループ(往々にしてどちらかを通すとどちらかの理想は排除される)が意見の衝突をおこすと、なぜか相手を認め合わずにお互いに中傷しあってる風景、これ見たことありますよね。両方とも多様性の尊重を主張してるはずなのに。

これはなぜか。多様性の真の意義と語義を無視して、"自分のわがままを社会に通す方便"として多様性の三文字を使っているから。それが理由だと思います。

たいていの個人って自分の利益を最初に考えますよね。私は人間の心理に造詣が深いわけでないのであくまで経験論ですが、違います?だって、他人をおもんぱかるのも、社会のために貢献するのも、大抵が"あとでそれ以上のリターンが期待できる"とか"どこからか称賛を受けれる"とか。ないしは、"それをしないと懲罰を受ける"からっていう理由じゃないですか?すくなくとも私はそうです。

誰も犠牲にしない社会の実現は、自分が犠牲にならないという前提の上で主張されていませんか?エゴの部分から目を背けていませんか?そんな個人の集合体である社会において、見かけの多様性が尊重される社会を主張する皆さん、原点に立ち返りませんか。

いまの"多様性を尊重する"活動の潮流は、真の多様性を尊重する社会の実現には寄与していないと考えます。彼らが目指しているのは、社会的弱者に配慮するために社会を構成する全員を弱者にする社会なのではないか。だからこそ、その見かけの多様性に反対し、多様性を認めない多様性を主張するグループが誕生しているのではないか。もう一回、特に当事者の皆さんには主張する前に、多様性の原義に立ち返ってほしいと思います。それは、未来の世代のためになっているのか。

そんな話でした。ご意見お待ちしてます。どれだけの人が見てくれるのかは分かりませんが。

受験勉強を応援してくれる方と、こんな低レベルな記事でもこれからも書いてくれって応援してくれる方、200円のお小遣いを私にください。w

ここから先は

0字

¥ 200

この記事が参加している募集

多様性を考える

受験勉強の応援ありがとうございます、学費の足しにさせていただきます(建前)セブンのティラミス氷が食べたいので、お小遣いをください(本音)