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観光望遠鏡

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屋上からの短い眺め
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井戸の底 (修正)

 わたしになる、という短いコピーが、目をつむった少女の広い額に細い字で印刷されている。反射的に私は額を強く手で擦った。
 どこかで知っている顔だ、と思った。子どもの頃観た映画に出ていたような気もしたし、ついさっき降りた列車の、向かいの席のひとが開いていた雑誌の表紙がこの少女だったような気もした。
 何もない部屋だった。私は湿った光沢のある真っ白な壁を眺め、少女の写るポスターを眺め、高い位置に掛けら

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ドラマ

 3話目の最後の10分で物静かな男が死んでしまうドラマを、男が少し驚いた顔をして倒れ込み、開いたままの両目に理不尽な悲しみが横切って、半開きの口からため息が滑り出て、伸ばした左手の甲に最初の雨の一滴が降るところまで、繰り返し何度も観た。

 男は毎回同じところで死んだ。
 そのほんの8分前には男は妻の隣にいた。音量を絞ったテレビの報じるニュースについて男は妻に話し掛け、しかし彼女は読み掛けの本に赤

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白線の外側に

 草むらの中に突然自転車のハンドルが突き出ていて、そこが自転車置き場だったのだと分かった。
 よく目を凝らすと、風が吹くたび波打つ草のあいだで、くすんだ銀のフレームが細い蔦に絡め取られて薄らいでいた。
 券売機のボタンはどの表示も積もった埃で白く見えなくなっていたので、私は目を閉じて少し考え、ひとつを選んで押し込んだ。目を開けると私の触れたところだけ、くっきり丸く剥がれ落ちていた。

 ホームには

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 ついに、私たちの街にやって来た。薄い紗のような黒い生きものは、この国を徐々に北上していた。それは毎日決まった時刻になると施錠し忘れた扉や窓から入り込み、建物の中をゆったりした動きでぐるりと泳ぎ回った。
 どのみちやって来るものだったし、いずれ去るものだったので、私たちは生活を続けるほかなく、こんな事態になってからも例えば教室には机に向かう子どもたちの姿があり、例えば家々には一家団欒する光景があっ

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これはみんなほんとうのおはなし

 森を抜けるために、たくさんの嘘を吐いた。わたしはとても上手に嘘を吐いた。本当のことはなにひとつ持ち出すことはできなかった。どのみちわたしは本当のことなんてなにひとつ話さない。
 わたしたちはふたり、連れ立って歩いた。前を行く彼の背中を見ながら、ときどき誰かが口ずさむ歌のほかは、ふたりともなにも言わなかった。落っこちていく歌だった。転げまわる歌、ねこじゃらしとアザミの歌だった。
 森は暗く鬱蒼とし

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 ぬくぬくと日の出た午後だった。面白くもないテレビを聞き流しながら、狭い座敷に寝転がって外を見ていた。網戸のすぐ向こうを踏み固められただけの田舎道が横切り、そのさらに奥には実ったものが皆刈り取られた後の、広々した畑だけが広がっていた。
 これは夢だなと思いながら横になっていた。枕にした薄い座布団も黒々と艶のある古い卓袱台も、小さな本箱に並ぶ背表紙たちも、横になったまますべて同時に視界に収まり、それ

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宛先が見つかりませんでした

1. 

 あなた宛てに緊急の連絡があった、と机の上に書置きが残されていて、それを読んで慌てて席を立ったので私は仕事を失った。
 手紙以外のものがチューブから吐き出されるのを初めて見た。後任の者を遣るから説明をして速やかに部屋を出るようにというその薄い紙一枚を読み終わるかどうかという内にはもうノックが聞こえ、私と似たような、しかしやはりどこかが決定的に違うような雰囲気の女が所在ない様子で立っていた

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地図

 隣の男が立ち上がるとき少し肘をぶつけて、それで彼は目を覚ました。トンネルをいくつもくぐり抜けるうちに眠ってしまっていたようだった。アナウンスが終着駅の名前を繰り返し、彼も軽い鞄を手にホームへと降りた。
 聞いていた通り駅は混み合っていた。やって来た人々と帰って行く人々がどの通路にもひしめいていた。
 彼は人の間を泳ぐようにして歩き案内所の前の列に並んで、ほかの旅行者たちと同じように、扉付きの棚の

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フィクション

 どうせなら骨やコンクリートの破片がよかったのに、あなたのシャベルが掘り当てたのは一冊のノートだった。
 つまらない日記だ、と少し読んであなたは思った。土を払ってめくったノートには、だれかの生活の記録がところどころ薄れながら残っていた。

 今朝はこの前買った水色の目覚まし時計で起きて、雷の光る水平線を眺めながら砂浜を往復した。
 鞄のベルトが時計屋の前で切れて、大叔父の訃報を受け取った。
 いつ

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食堂

 図書館から借りてきた料理の本の、右のページばかりにメモの跡が残っている。
 私は夕日の差す部屋に煌々と明かりをともし、それを照り返すまっさらな食卓へ、とりとめもないひとりごとを並べていた。その片手間に、ぼんやりめくっていて見つけた。
 薄い本の数ページにくっきり写った筆跡は、すべて同じ手によるもののようだった。大きく余白をとった美しい字で、生真面目で優しかった友人のものによく似ていた。

 しょ

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しずかな色の子の話

 人通りのある場所に立つその子どもの画用紙には水がいっぱいに吸わせてあって、会うひと会うひとにせがんで置いてもらったどんな色も、置いてもらうそばからたちまち滲んでしまった。
 買い物中の女性が隅の方にくれた青緑はじわじわ形を変えながら中央の淡い橙色へにじり寄っていき(それはバス停で老人にもらった色だった)、駅員がハサミを入れた切符のついでにくれた灰がかった赤い色は、滑るように薄く伸びた先で制服の少

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姉妹

 さがしものが得意ね、とよく言われた。
 子どもの頃、姉は不意にいなくなることがあった。借りてきた映画を家族で観ているとき、訪ねてきた祖母の昔の話を聞いているとき、姉の誕生日に、集まった友人たちを置いて姿を消してしまったことさえあった。
 姉を探しに行くのはいつもわたしだった。
 家の中や庭の木かげ、公園の東屋にいたこともあった。わたしが簡単に姉を見つけるように、姉は簡単にひと気のない場所を見つけ

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ガラス瓶

広口のガラス瓶を持って彼は歩き回った。
友人のいなくなった家の物置を片付けていて見つけた。
ガラス瓶はほとんどそこに存在していないように透明で、そうやって始終手にしていなければ、置いた途端になくしてしまいそうだった。きっと前の持ち主もそれで置いていったのだろう。

歩き回っていると時々、彼のと同じくらい透明なガラスを見掛けることがあった。
ずっと前から忘れられていたのだろうそれらは小さな球の形

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件の娘

 山道を抜けると、さっきまでがうそのように晴れていた。
 土砂降りの雨音が取り除かれて、四人乗った車内はいっそう静かだった。窓ガラスの、次々後ろへ流れていく水滴を眺めてついたため息が思ったよりも大きく響いて、助手席から母が振り返った。母は驚いたようにわたしの顔を見つめ、起きていたの、と尋ねると返事も待たず早口に、もうすぐ着くからね、と続けた。
 ゆうべもよく眠れなかったのに、二時間ほどの道のりで少

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