見出し画像

【連載小説】黒き夢みし vol.6

二〇〇八年四月 第一週〜第三週 B V T本社
 
 入社してから三週間が過ぎた。この間に明彦の身の回りはせわしなく動き、社会人として生活スタイルや交流関係、様々な変化があった。

 BVT社での昼休みは社員食堂を利用することができた。しかし大学の学食のように食事が提供されるわけではない。その代わりB V Tビル内で弁当販売が行われていたので、明彦は弁当を買って食堂で食べて過ごしていた。驚くべきことに昼休み中に食堂で明彦は知らない新入社員から声をかけられることがあった。自己紹介でやった『絶対成功するデート術』の影響が大きく、面白がって話しかけてくる人たちがいるらしい。
 とある日も「ちょっと恋愛相談したいんすけど」と髪を整髪料で逆立てて眉毛の細い男から、昼休み中に話しかけられた。明彦は四年大学卒なので二十二だが、彼は専門大学卒なので二十歳のようだ。明彦は彼をヤンキーと呼ぶことにした。
 ヤンキーは最近好きな人ができてデートをしたのだが、次につなげることができずに悩んでいるという。明彦は自己紹介の時と同じように一輪の薔薇をプレゼントすれば良いとアドバイスした。
「薔薇の他に何かあります?」
「じゃあデートの終わりに彼女と別れたときに、時計を見て、そこから彼女が家に帰る時間を予測する。その時間になったら電話を入れて一言だけデートのお礼を言ってみようか」
「夜に電話するんすか?」
「彼女が家についたぐらいに一言だけの電話だから大丈夫。もうちょっと話したいなって思うぐらいで電話を切れば完璧でしょ」
「そうなんですか」と細い眉を寄せながら、合点がいかないといった素振りを見せた。
「しつこくない程度にマメな対応が大事なんだよ」
 
 誰か一人と知り合いになれば、交友関係は広がっていく。翌週の昼休みには、明彦のもとに再びヤンキ〜が再びやってきたのだが、知らない女子社員と一緒だった。
「花をプレゼントしたらすごく喜んでくれました」
 ヤンキーは照れながら明彦に報告した。
「本当に恥ずかしかったすけど、いざプレゼントしてみたら、ちょうど一輪挿しの花瓶を買ったからそれに飾ってみるね、って喜んでくれました」
 明彦が「良かったですね」というと、ヤンキーは頭を下げた。
「本当にありがとうございました。で、別の話なんすけど、この人も相談したいらしいです」
 ヤンキーはそう言いながら、隣にいた女子社員に視線を送った。
「どうも初めまして。彼と同じ研修室なんですけど、ちょっと恋愛相談したくてきました」
 彼女は柔和な笑顔を見せた。おっとりとした言葉の端々に関西なまりがあった。話を聞くと神戸出身で高校卒業後に東京の大学に入ったという。N H Kの連続テレビ小説に出演していた頃の鈴木キョウカに雰囲気が似ていたので、キョウカと呼ぶことにした。
「実は同じ大学卒の彼氏がいるんですけど、あほで全然働いてくれないんです。卒業して、この春から同居して一緒に働こうって約束したんですけど、全然働いてくれないんです」
「それで君だけ働いているんだ、偉いですね」
「私は文系大学卒でこういう業界に入ってしまったんですけど、研修内容もちょっと難しくて。でも彼氏が働かないから私が働かなきゃいけないし」
「彼に働いてもらうことも大事だけど、まずは自分の状態を整えることが大事かもしれないね。今は研修期間だから、研修内容を理解していくとか」
「でも一人でやっても難しくて」とキョウカは眉を曇らせた。
「例えば、分かる人と一緒に勉強したらいいんじゃないかな」
 そう言って明彦はヤンキーに視線を向けた。
「そりゃ、自分はIT専門に通っていたので、今の研修内容は分かりますけど……」
 ヤンキーは歯切れ悪く答えた。
「じゃあ教えてくれますか」
 キョウカは先ほどと同じ柔和な笑顔を見せた。彼女は笑顔が得意なのだろう。ヤンキーはしばらく視線を逸らした後、意を決したように話を始めた。
「実はなんですけど、例の彼女に告白をしたんです。そうしたら彼女は家庭の事情で来月北海道に行くことになったらしいです。遠距離になるから付き合うのは難しいんじゃないかと彼女から言われたんですけど、自分も北海道に行こうと思うんです」
「え、じゃあ会社はどうするの」
「今月中に辞めようと思ってます。どうせまだ何も始まっていないので辞めるなら今です」
 ヤンキーは真面目な顔でそう言った。髪を尖らせたり、眉を細くしたりしているが、中身は純朴な青年のようだ。
「だから会社にいる間は一緒に勉強してもいいですけど、そんなに長くはいないですよ」
「じゃあ困っちゃいますね」
 キョウカは再び顔を曇らせた。
「じゃあ僕もその間、一緒に勉強するよ。やりながら一緒に勉強仲間を増やせばいいんじゃないかな」
「それでいいならいいですよ」
 ヤンキーはうなずいた。キョウカも笑顔を取り戻した。明彦も研修についていくために勉強は必要だと思っていたので丁度よかった。早速明日から一時間早く出社して勉強することになったのだ。
 
 *

 ヤンキーやキョウカだけでなく、明彦にとって食堂は交友関係を広げる場所になっていた。同期の新入社員が二百人もいれば、いろんな人と知り合いになることができる。誰かと話しながら、食堂で過ごしているときに、全体を見回すと新入社員以外の顔ぶれも目に入る。三十代、四十代の先輩社員もいる。生き生きした顔つきの人もいれば、暗い顔をしている人もいる。馬ゾンビは講師や先輩社員と食事をとっていた。おそらく人脈作りを進めているに違いない。小笠原は一人で弁当を突いていた。食べ終わるとすぐに食堂を去っていった。

 食堂の過ごし方で一番楽しみだったのは、マドンナと昼休みを過ごすことだった。マドンナと近づきになってからは週に二回ほど、一緒に弁当を食べる機会があった。いつの日からかマドンナの弁当は手作りになっていた。
「お弁当を作ったんだ?」
「そう、節約のために」
 水色の弁当箱にはミニトマトやブロッコリー、ミニハンバーグが詰められていた。
「すごいですね、僕はこんな綺麗なお弁当を作れないな」
「でも冷凍食品を使えばすぐにできますよ」
マドンナは倹約意識が高く、安く買える弁当の具材となる冷凍食品や、朝の短い時間での弁当の作り方を教えてくれた。
 弁当作りの話の後は好きな本の話をした。マドンナは東野ケイゴが好きで、彼のほとんどの小説を読んでいるらしい。その夜、明彦は本屋で東野ケイゴの小説と、スーパーで弁当用の冷凍食品を買って社員寮に戻った。
 ヤンキーとキョウカと一時間早く出社して勉強するために六時に起床していたが、もう少し早く起きて弁当も作ることにした。
 
 翌朝、明彦は朝五時半に起きて、マドンナに教えてもらった通りに社員寮の共同キッチンで弁当作りを始めることにした。明彦が共同キッチンに向かうと、朝早い時間にも関わらず鼻歌が聞こえてくる。先に誰かが調理をしているようなので「おはようございます」と言いながら共同キッチンに入った。
「ハァイ! グッドモーニング!」
 先に調理をしていたのは、社員寮の説明会の時に現れた黒人の男性だった。明彦の方を向いて白い歯を見せて笑った。フライパンで何かを炒めている。
朝起きてすぐに英会話が必要になると思っていなかったので、咄嗟の反応できなかった。
しばらく考えた後「グッドモーニング」とオウム返しをした。こういう機会があるなら簡単な英会話ができた方がいいなと思いながら、昨日買っておいた弁当用の冷凍食品を冷蔵庫から取り出して、電子レンジで加熱をした。その様子を黒人の男性はちらちらと見ていた。
「ヘイヘイヘイ、ホワッツディス?」
 焼売の冷凍食品を指差しながら、黒人の男性は尋ねてくる。焼売も冷凍食品も英語でなんといえばいいのか分からない。
「アー、コールド、チャイナフーズ、メイク、ランチボックス」
「オー、ナイス」
 伝わったのかどうかは分からないが、黒人の男性はその後も話かかけてきた。明彦の知っている黒人はプロ野球の助っ人外国人のイメージしかなかったためにラミレスと呼ぶことにした。

 ラミレスと一緒に作った弁当をバッグに詰めると時刻は六時半になった。今から出社すれば八時に到着することができる。一時間前に出社する生活を始めてみると、電車内も多少は空いていていることがわかった。それまではすし詰め状態に何をすることもできなかったが、今は読書をする余裕がある。電車内の隅に陣取り、昨日買った東野ケイゴの小説を読むことにした。

 その小説の主人公は妻一人と娘一人を持つ男性だ。小説は妻と娘が事故に遭い、妻が死んでしまうところから始まった。娘は助かったのだが、娘の様子がおかしい。どうやら娘の姿なのに、死んだ妻の精神や思考が娘に宿っているという話だった。最初の一文から次の展開が気になるような構成になっていて、ページをめくる手が止まらない。
 明彦は小説家志望なので当然、東野ケイゴのことは知っている。しかし小説は純文学でなければ小説でないという偏見を持っており、推理もののようなエンタメ小説は見下していた。
大学時代にも偏見に満ちた眼差しで、東野ケイゴの短編集を一冊だけ読み、批判たっぷりの日記をミクシィに投稿したこともあった。それがどうだろう。通勤中の電車で読むとなんと面白いのだろう。あっという間に田町駅に着いていた。

 二〇〇八年四月 第四週 B V T本社
 
 ネット上でブラック企業と表されるB V Tだが、今のところ明彦は社会人生活を楽しんでいた。社内設備も充実していて、社員食堂もあれば、予約すれば無料で利用できるマッサージルームや英会話教室もあった。面白そうだったのでマドンナと一度英会話教室に参加した。勉強した内容は共同キッチンでラミレスとの会話で実践した。一度参加したマドンナは教室のレベルが低過ぎて、二回目以降は参加しなかったが、明彦は都合が合えば参加した。
 朝は五時半に起きているが、早く出社してキョウカとヤンキーと勉強をしているし、お昼はマドンナや他の人たちと食事をして、交流関係を増やしている。

 朝の勉強のおかげて研修内容も理解できているし、人間関係も良好である。一日一日はあっという間に過ぎていった。東野ケイゴの小説はすでに三冊読み終わった。マドンナとの会話も楽しい。
 やがて四月も下旬を迎えた。あと一週間で一ヶ月も過ぎようとしている。その頃になると明彦はブラック企業なんて大したことはないじゃないかと思い始めていた。

 今朝もヤンキーとマドンナとの勉強を終えた後に、第三研修室の自席につくと、いつもと様子が違っていた。普段は三十人いるはずなのだが、今日は二十名ほどしかおらず、空席が目立っている。馬ゾンビやマドンナはいつも通り自席についていた。
九時になると落合がやってきて、こう言った。
「空席が目立っていますね。いない人たちは何をしているかというと、先行して現場に派遣されました。研修期間中ですが、成績優秀な人は先に派遣されるということです」 
 空席が目立つ研修室に、小笠原の姿はなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?