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永井均著『西田幾多郎』について(続)

永井均氏は、ほとんど解説本を書くことはないが、それでも数少ない中の一つとして、『西田幾多郎 言語、貨幣、時計』があります。

前回は、上著書を再読して同感したことを書きましたが、今回は気づいていなかったことを取り上げます。

それは、デカルトが説く「われ思う、ゆえに、われあり」に関して問題にされる、「それは論証なのか、それとも直観なのか」ということに対する、デカルトと西田の立場の相違でした。

デカルトの場合は、それは両方であり、論理的推論と生の事実、つまり本質と実存は連続している。その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した。

ところが、西田は直観、すなわち生の事実だけを疑いえないものとしたために、デカルトが直面しなかった難問にぶつかった、と永井は言う。

この難問から脱出するためには、一種の言語哲学的な方向に展開するしかない、と述べる。

西田哲学に漠然としたイメージしか持っていない人には意外に思われるかもしれないが、これは決して恣意的な思いつきではない。

禅仏教に基づく宗教的な哲学と思われがちな西田哲学な、その内部に入り込んでみると、むしろ無味乾燥といっていいほど論理的、形式的な議論に満ちているのである。

著者自から「悪戦苦闘のドキュメント」と称したことで名高い、『善の研究』に次ぐ第二の著書『自覚における直観と反省』も、その例外ではない。

永井 均. 西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ
(角川ソフィア文庫) (p.45). 株式会社KADOKAWA.
Kindle 版.

前回は「主客合一」「純粋経験」という概念のイメージから、仏教の禅、瞑想、悟りに近い哲学なのではと思い込んでいたことに気付かなかった。

宗教は「物語」で世界を説明するものであり、一方、哲学は「物語」を使わず、概念を論理的に使って世界を説明するものである。

したがって、西田は哲学者であるがゆえに、論理的にならざるをえなくなる。すると、西田は、いったい何を求めて、仏教の修行をしたのだろう。

湯川秀樹氏を始めとした物理学者やスティーブ・ジョブズのようなIT創業者も仏教界に興味を示していたこととは、同類ではないものと考えている。


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