さまざまな出来事
X(旧Twitter)やネットニュースで流れている記事で関心があるものをランダムに羅列してみる。
ハマスーイスラエル戦争関連
ロシアーウクライナ戦争関連
裏金問題
松本人志問題
査読問題
1:戦争停止に反対しているのは、もはやイスラエルとアメリカだけという状態になっている。
2:日本では報じられていないようですが、アメリカの大手新聞ですら、ウクライナの負けを認めた報道がされている。ウクライナへの資金援助が困難な状態では、戦争を続けることはできないだろう。
3:以前産経新聞は安倍元首相をしっかり擁護していたにも関わらず、今回の裏金問題では、一転して批判的な立ち位置になっている。落ち目となると、手のひら返しする典型ということか。
4:ジャニーズ問題と違い、BBC発のニュースではないので、逃げ切れるのではという見方もある。一方で、産経ですら、安倍派つぶしに加担しているぐらいだから、安倍元首相にべったりだった、松本氏も一蓮托生となるのではという見方の人がいた。
何とか、逃げ切れたにしても、かなり前から引退時期を仄めかしていたから、これを機に、芸能界を引退するのでは、と想像している。
5:Xのタイムラインを眺めているだけだから、何が起きているのかは分からない。理解した範囲を、かいつまんでいうと、ある哲学者が論文を提出したが、査読の結果、リジェクトされて憤慨しているという話しである。
本来なら、査読コメントは公にすべきではないが、論文投稿者がXにぶちまけた。彼の言い分は、「私の論文を理解する能力もない人が、査読し、しかもリジェクトするなんであり得ない」という調子でかなりの怒りようだった。
投稿者の一連のXに対して、「査読ではよくあることだ」としたり顔の論者がいた。査読する人は、必ずしも、出された論文の分野の専門家が担当するわけではないから、というわけです。
ど素人からすれば、何だ、この理不尽なシステムはと驚嘆してしまう。
哲学者永井均氏は下記のようにポストしている。
投稿文の内容は、トランスジェンダーという非常に微妙なことに関するものなので、政治的な問題となりやすいことではある。イデオロギーの対決みたいなことになっているということだろうか。
永井氏説に、納得できるが、「投稿者を擁護する師匠がいる」と、とんでもないことだというニュアンスで批判していた人もいた。Xの流れからは、師匠とは永井氏のことと思われる。
そういえば、X上で「社会学者の宮台真司氏の論文数が少ない」と批判する人がいた。それ対して、「宮台氏の論文を理解できる人がいないから論文を投稿しても意味がないのだ」と応答していた人がいたことを思い出した。
学術界というものは、ドロドロとした妖怪みたいな世界のようだ。
そもそも査読というシステムは、分析哲学が主体のアメリカから始まったと聞いている。
ヘーゲルをはじめとする形而上学者は難解で意味ありげな字面を並べているが、実のところナンセンスなうわごとを言っているに過ぎないと批判していたのが論理実証主義だった。これを起源として発展してきたのが分析哲学である。
論理実証主義者の主張は、哲学の科学化であった。哲学においても、一義的な明晰性、論理的厳密性および十分な根拠づけが不可欠である。したがって、独断的な主張や、検証できないような思弁は、哲学に存在してはならない、というものであった。
こうした主張に基づいて、哲学論文も厳密な査読が必要であるということになった。分析哲学のみではなくて、大陸系哲学(フランス現代思想、ドイツ哲学など)も査読を実施するようになったようです。
それにしても、哲学論文内容を理解もできない一個人が査読するシステムが合理的とは、とても思えない。
哲学者竹田青嗣氏によれば、哲学とは、テーブルの上に哲学原理を乗せて、それを皆で、議論しながら、練り上げていくものだと述べている。
論文の査読もそうすることが、理想ではあるが、多数ある投稿論文を裁くには、荷が重すぎるのだろう。
かといって、該当論文の専門でもない人が、裁判員制度のように素人が判定するのは、論文投稿者にとっては、まるで、運まかせの賭けみたいなことになっていることを放置してよいのだろうか。
偉い人が考え、長年実施してきたシステムであるからには、私などには想像もつかない、もっと深か~い意味があるのでしょうが・・・・
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