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永井均著『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』 読書メモ (再掲)

目次を追加したので、再掲します。


第1章 〈私〉の存在という問題の真の意味

  • (1)第一基準:たくさんの人間(生き物)たちのうちから、何を根拠に自分を識別しているのかと、と問われるなら、ただそれだけが現に与えられている事実によって、と答えるしかない。

  • (2)デカルトは「欺く神」と闘った。闘って、【私が「私は存在する」と思うかぎり、私は存在する。神の力をもってしても、ここでは私を欺くことはできない】という勝ち名乗りをあげた。

    しかし、このとき勝ったのは誰(というより正確には何)だろうか。果たして他者であるわれわれはこのとき勝ったのは何であるかを知りうる立場にいるだろうか。(中略)

    かりにそうだとすれば、ここで最後に残るのはやはり「逆方向の疑問を持つ人」の問題意識である。この問題を、たとえ歴史上デカルトに端を発するとはいえ、デカルトという過去の他人の場合で考えるのは的はずれであったことになる。

    この意味では、欺く神と闘って勝つことができるのは、文字通り私だけである。

    (デカルトの闘いはまさにそのことを示唆していることになる)私がデカルトと同じ全般的懐疑を敢行し、欺く神の欺きと対決したとき、私だけが知りうる仕方で、私は欺く神に勝てることになる。

    なぜ私だけが知りうる仕方なのか、なぜ神はそれを知りえないのか。

第2章 デカルト的省察

  • (1)デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかであった。それは、デカルトが自分を捉える際に用いる「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を神は持ちえないから、であった。

    しかし、私は、欺く神などではもちろんないとはいえ、またデカルトでもない。「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を持ちえないという点では、欺く神と同じ立場にある。(中略)

    しかし、デカルトという他者にかんするかぎり、そう考えることができるだけである。

    だがもし私自身がデカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決するなら、私はその神に現実に勝つことができるだろう。

    私自身が実行すれば、前段落で「概念的には」と限定した知り方を超えた知り方でそれを知りうるからである。

    その神がそのように私を欺こうと、私が何かを思っているかぎり(その内容に関係なく)思っている私は存在する。

  • (2)現在の世界はなぜか存在している。一人だけ他の人間とはまったく違うあり方をしている人のことを〈私〉と表記することにする。何よりもまず驚くべきことは、〈私〉という存在者の持つ極端な二面性にある。

    一面においては、それが現に存在していることはもちろん疑いなく(なぜか最も疑いなく)しかもそれが存在したからこそ他のすべて(森羅万象)はその存在を初めて開示された(もっと強く言えば初めて得た)とさえいえるほどである。

    それにもかかわらず他面では、それは幽霊以上に幽霊のようなあり方をしている。

    第一に、それは他人たちからその存在を決して認められない。

    第二に、じつは同じことだともいえるが、それが存在している事実は世界の内容にいかなる影響も与えない。

  • (3)欺く神の側はもちろん、その自己意識の存在そのものが偽だ、おれが騙して在ると思わせているにすぎないのだ、と言うだろう。また本当にそう信じてもいるだろう。

    それでもなぜか〈私〉であったならば、それは(疑う余地なく)存在する。欺く神は、その意図と無関係に、なぜか〈私〉を実存させてしまったのである。それはもはや偽であることはできない。
    これが第一の確認事項である。

    しかし第二に、そのことは概念的に保証されてもいる。つまり欺く神は、ある意味では、そういう〈私〉を実存させてしまわざるをえないのである。彼はたまたま負けただけでなく、必然的に負けもするのだ。

    これが第二の確認事項である。そして、この二重性こそが哲学的な問題なのである。

第3章 独在性の二つの顔

  • (1)欺く神が二重の意味で負けうるのは、勝つ側に、すなわち〈私〉には二重の意味があるからだ。

  • (2)欺く神はたまたま負けうるだけでなく、必然的に負けもするのだ、この二重性こそが哲学的な問題である。それはまた、次の二つのことの「相互依存関係」との問題とも繋がっている。

    一つは、たとえば欺く神との闘いにおいて(他者にすぎない)デカルトの側が勝利できるということの意味を理解する場合においてさえ、その理解には「現実にそこに〈私〉が実現しているから」といった端的な実存の理解が含まれていなければならない。

    もう一つはその逆、すなわち、この私における端的な勝利の場合でさえ、一般にこのような場合には勝たざるをえないということの概念的理解が含まれていなければならない、という事実である。この二つの含みあい、すなわち相互依存関係が不可欠なのであった。

    これは〈私〉と《私⦆の二重性である、とも言える。もちろん、前者が「なぜか」に、後者は「ざるをえない」に対応する。

    そして、どちらにかんしても、デカルト的な意味での「疑いえなさ」が同様に成立する。

    この二重成立こそが「独我論は語りえない」ということの真の意味である。

  • (3)世界を開闢する唯一者の存在と、そのことの偶然性(あるいは無根拠性)である。この方向の説明においては、これが出発点である。すべてはここから出発する。

    為すべき主要な仕事は、この端的な事実を一般化・相対化し、すべての「私」に起こることのたんなる一例と見る見方を開発することである。

第4章 相対主義とルイス・キャロルのパラドックス

  • (1)通常、様相論理学においては、偶然は「可能であって必然でないこと」のように定義される。可能性には必然性が含まれる(必然性であることもまた可能であることの一種である)から、可能であることから必然である場合を除いた残りがすなわち偶然である、というわけである。

    そうだとすると、可能なことは(必然である場合を除けば)すべて偶然である、ということになる。

    これを可能世界という装置を使って表現するなら、偶然とはどこか一つの可能世界で成立していることになるだろう。(中略)

    この考え方においては、たんに可能であるだけかそれとも必然であるのか(ある可能世界においてなのかそれともあらゆる可能世界においてなのか)という対立に、さらに現実である(現実世界においてである)というそれらとは異質の新たな観点が介入している。

    この考え方においてはしたがって、可能世界(現実世界以外の)においてだけ成立することは、たんに可能であるだけで偶然であるとは考えられない。

    これが「「偶然」が(ある意味では)異なる意味を持つことになる」ということの意味であり、ここが出発点である。

    ここから出発して、「ある可能世界において」成立するという偶然観と、「現実世界において」成立するという偶然観の両方の側から互いに他方を同化する道筋をさぐるわけである。

    というわけであるから、「一方は偶然性から可能性を導き出し、他方は可能性から偶然性を導き出す言い方はそれで意味が通じるだろうが、必ずしも正確だとはいえない。

    正確には「一方は、偶然は現実世界しかないという偶然観からあらゆる可能世界に偶然があるという偶然観を導き出し、他方は、あらゆる可能世界に偶然があるという偶然観から偶然は現実世界にしかないという偶然観を導き出す」と言うべきだろう。

  • (2)現実世界というあり方を固定せずに、それぞれの世界にとってのそれぞれの世界を「現実世界」とみなす考え方は様相実在論と呼ばれるが、様相実在論的に考えれば、可能性と偶然性は(必然性との関係以外では)区別できない。

    諸可能世界に偶然性が存在し、現実世界の偶然性もまたその一種にすぎないことになるからだ。

  • (3)「偶然は現実世界にしかないという偶然観からあらゆる可能世界に偶然があるという偶然観を導き出す」に対応する前章の議論は、要約するなら「なぜか存在してしまっている前代未聞の唯一者からその同類を作り出す」ということである。

    「あらゆる可能性に偶然があるという偶然観から偶然は現実世界にしかないという偶然観を導き出す」に対応する前章の議論は、要約するなら「同じ種類の複数の者たちの存在から、そのあり方の本質を括り出すことによって、前代未聞の唯一者を導き出す」ということである。

  • (4)
    ①:客観的な真理があるという立場
    ②:相対主義という立場
    ③:「それぞれの人にとって、それぞれの感じ方や好みがある」などとは決して考えない立場①から見れば②、③は同じ穴の貉で、本質的に同じ主観主義的な立場に見えるかもしれない。

    しかし、この③から見れば、その絶対主義的な客観主義と相対主義的な主観主義こそがじつは同じ穴の貉で、本質的には同種の超越的な客観性の見地なのである。

    ただ超越の仕方が、いわば縦に(すなわち客観的な真理の視点へと)超越するか、横に(すなわち同格とみなされるそれぞれの視点へと)超越するか、という点で異なるだけである。

    さらに②から見ると、他の二つが同じ絶対主義的な立場の二つの変種に見える、という点も重要である。

  • (5)端的さを強調する立場は「偶然は現実世界にしかないという偶然観(これを〈偶然〉と表記する)に対応する。これによれば、唯一現実の端的に与えられたものがあるだけである。

    ここからは、客観的に存在する真理が導き出せないと同様に、各人各種の真理があるという事実も導き出せない。

    ここには、相対主義から要請される各人の個別性という事実とは別の事実があるのだ。個別的なその各人たちのうちにある一人がなぜか私である(その他は他人である)という事実がある。

    ここでのポイントは「このこと自体が各人に成り立つ」のではないという点にある。

    しかしもちろん、とりわけ問題の伝達の場面では「このこと自体が各人に成り立つ」と読み換えられて伝達されることになる。

  • (6)アキレスは現実世界の話をしているのに対して、亀は可能世界の話をしているわけだ。(もちろん、いかなる可能世界も、その世界にとっては現実世界であるのだが!)

第5章 フィヒテの根源的洞察から「一方向」へ

  • (1)「自己意識は概念であると同時に直観でなければならない」というフィヒテの洞察との対応は明らかだろう。

    一般的なA変化もまたその意味理解の源泉を端的なA事実に求めざるをえないことは、自己の一般概念を持つためにはその唯一の実例の存在が不可欠だあることに対応している。

    端的なA事実もまたA変化せざるをえないことは、自己の唯一の実例もまた一般概念を必要とすることに対応している。

  • (2)世界のあり方を要請する開けの原点とその要請を超えてそれが現に存在していることの二つが、対立しながらも相互に組み込みあう、ということになるだろう。

    前者がすでに「それが存在している」という意味を(意味上)含んで成り立っているために、後者の現存在が「語りえぬもの」になる、という特殊なパラドックシカルな構造がそこに成立するわけである。

    アキレスはつねに一歩前に出るのだが、必ず追いつかれてしまうのだ(いいかえれば、必ず追いつかれるにもかかわらずつねに一歩前に出てしまうのだ。

  • (3)諸可能世界のなかでの現実世界の中心性という問題とは別に、現実世界の(あるいはそれぞれの可能世界の)内部に諸「今」たちのうちの唯一の現実の〈今〉、諸「私」たちのうちに現実の〈私〉という問題があるからだ。

    それらがまた別の、独自の中心性構造を作り出すわけである。

  • (4)時勢の場合でいえば、諸「今」のうちのどれかが必ず〈今〉でなければならないことと、これがそれであることとのあいだにも、人称の場合でいえば、諸「私」のうちのどれかが必ず〈私〉でなければならないことと、これがそれであることのあいだにも、ある種の矛盾があると言っているのである。

    これは、「 」と〈 〉のあいだのの矛盾ではなく、いわば《 》と〈 〉のあいだの矛盾である(これはもちろん「いわば」であって、そもそも、「 」と《 》の関係自体がそう簡単なことではないことはすぐにわかる)

  • (5)世界には、第一基準によって自己を識別して把握している無数の主体(すなわち諸≪私≫たち)が存在しており、そのうち一つが現実の〈私〉である、と。

    そうだとすると、無数のそのような主体(諸≪私≫たち)のうちから、唯一現実の〈私〉はどのように識別されうるだろうか、という問題が生じる。

    第一基準はもう使えない。これが延々と続く。亀がどこまでも追いついてくるのだ。

  • (6)どの今にかんしても、まずはそれを限定する(おそらくは「出来事」や「時点」という概念によって)何らかの事象内容(内包)があり、次に、そのうち一つが現に起こっているという、その(無内包)現実性がある、という二層をなしており、その二つは前者の中に後者が(事象内容化されて)入り込むという構造をしている。

  • (7)客観的世界の側からそもそも存在しないとはいっても、出発点を逆にして、こちらから出発すれば、そこから客観的(=相対主義的)世界を構成して、おのれをその内部に(人物や時点として)位置づけて実在させることなどできる。

    それは伝統的に超越論哲学としてなされてきたことの本質であるだろう。

    われわれの客観的世界はその世界の内部にはもはや存在しないから開始されているということはおそらく紛れもない真実なので、それは有意義な仕事ではあった。

    しかし、その逆のルートは存在しないのだ。重要なのはむしろその点である。客観的世界を構成しておのれをその内部に位置づけたあかつきには、その世界の側からその道を逆に遡る道はもはや存在しないのだ。

    おそらくこれ(この存在のしなさ)こそが「独我論」という発想の最も根底にある問題であろうと思う。

第6章 デカルトの二重の勝利

  • (1)〈私〉や〈今〉は間違いなくーーデカルトが示したようにこれ以上間違いないほどに間違いなくーー存在するのだが、それにもかかわらず、それはこちら側から見ると、そもそも存在しない。

  • (2)デカルトの「私は存在する」という真理は、一般的な真理にすぎない。こうした一般論でその存在が「疑いえない」ものとなることを超えた、さらに別の種類の「疑いえない」ものが存在してしまっている、ともいえるはずである。

    それが〈私〉の存在である。デカルトはそれを捉えたと、とみなすこともできるのである。

    もしそうであれば、それはもはや一般論ではない。この場合にだけ何故か成立してしまっている奇跡的な出来事である。欺く神はそれが成立してしまったことを知らないのだ。 

  • (3)自然主義的に捉えれば、生物としての人間にそれぞれ意識が存在する(おそらくは脳や神経のおかげで)にすぎない。

    この考え方の線上にデカルト的コギトの第一解釈までは位置づけることができるが、第二の解釈は位置づけられない(唯物論的独我論を許容すれば別だが)。

    なぜか存在してしまっている〈私〉は、もともと自然主義的存在者ではないからだ。それは(自然主義者の言う意味での)自然の中には実在しない。

    とはいえ、そもそも客観的・相対的・共在的世界の側からは実在しないのはあたりまえのことにすぎない。 

第7章 ものごとの理解の基本形式とそれに反する世界のあり方

  • (1)〈私〉は、まずそのイデア(あるいは一般概念)があって、次にその個別事例がある、という仕方では捉えられない。

    また逆に、諸事情の側から出発してそこから一般概念を抽出する、というわけにもいかない。

    本当の事例は一つしかないからだ。そこから出発せざるをえないのだ。これが私の解釈するある意味でのフィヒテの根源的解釈である。

    カントもウィトゲンシュタインも、おそらくはこの問題に感づいていたが、それをものごとの理解の基本形式のうちに収めようとした。

    この方向の努力はその後の哲学の流行=伝統となった。それはもちろん不可能なことではない。

    もとより私は「私」の一例でもあるからだ。この世界を統合は、ものごとをそのような捉え方で統一的に理解することによって成り立っているのだから、それは当然のことでもある。

    しかし、問われるべき真の謎は、なぜそうではない捉え方も可能で、また不可欠であるのか、のほうにある。

    どういうわけか哲学史上、そちらの方向への探究がほぼまったくなされていない。

    哲学がそちらの側を(も)深く掘り下げようとしなければ、哲学もまたこの世界を成り立たせている諸々のイデオロギーの一味に成り果てるだろう。(残念ながら今はそうなっている)

  • (2)「世界は〈端的=現実には〉この唯一の事例から〈開けて=始まって〉いる」。

    これが独在的世界理解の基本形式である。これは中心性と現実性という二つの要素から成り立っている。〈端的=現実には〉が現実性を表現している。

  • (3)中心性とは、すべてが結局はそこに収まってしまうことを意味している。たとえば、過去は≪今≫における記憶や記録から成り、未来は≪今≫における予期や予測から成る。

    ということは、すべては実は≪今≫にあることであり、とすれば、結局のところは≪今≫だけあればすべては揃ってしまう、ということになる。

    (ここから、だから過去や未来は本当は存在しないのでないか、と疑う必要はない。

    そういう疑いが可能であるような仕方ですべては存在しており、そういう仕方でしか存在しえない、ということだけが重要である。

  • (4)≪私≫についてもまったく同じことがいえる。外界や他者は≪私≫における知覚や思考や想像などから成り立っている。

    ということは、すべては実は≪私≫にあることであり、とすれば、結局のところは≪私≫だけあればすべては揃ってしまう、ということになる。

    (ここでもやはり、だから外界や他者はじつは存在しないのではないか、などと疑う必要はない。すべてはそういう疑いが可能であるようなあり方であり、そういう風にしかありえない、ということこそ問題なのである。

  • (5)では、現実性とは何か。すべてはじつは≪今≫にある、とか、すべてはじつは≪私≫にある、といった中心性は≪今≫や≪私≫のもつ本質構造であり、どの≪今≫、どの≪私≫をとっても成り立つことである。

    しかし、現実に存在している≪今≫(すなわち〈今〉)、現実に存在している≪私≫(すなわち〈私〉)は、そのうちの一つだけである(この「現実に」の捉え方はすでに一方向性がはたらいていることを忘れるべきではないが)

  • (6)外界や過去はじつは存在しないのではないか、といった懐疑は、事象内容的な構造上の事実なので(つまり本質の問題であって実存の問題ではないので)現実性ではなく中心性のほうに関係しており、それゆえ非現実的な(現実のではない)原点を出発点にとっても問題なく成り立つ懐疑である。

    物的外界の実在に対する懐疑に端を発する観念論や、他人の心の実在に対する懐疑に端を発する独我論は、それゆえ現実性の問題(ヨコの問題)ではなく中心性の問題(タテの問題)である。

  • (7)中心性という捉え方の大きな特徴は、それが先に言及した「ものごとの理解の基本形式」に問題なく収まる。(中略)これに対して、現実性という捉え方の特徴は、まさしく「ものごとの理解の基本形式」に決して収まらないということにある。

    これは極めて簡単な事実だ。どの時点もその時点においては≪今≫だが、そのうちの一つが現実の〈今〉である、と、このように言われるとき、その言明自体はふたたびどの時点においても言われうるにもかかわらず、現実の〈今〉は(第一に)ただ一つしかありえず、しかも(第二に)それは端的なこの今である。

    真の中心はじつはそこしかない。この突出を最終的に平準化する方法は存在しない。それはどこまでもあの基本形式を逃れていく。

  • (8)だれでもその人にとっては≪私≫だが、そのうちの一つが現実の〈私〉である。と、このように言われるとき、その言明自体はふたたびどの人おいても言われうるにもかかわらず、に現実の〈私〉は(第一に)ただ一つしかありえず、しかも(第二に)それは端的なこの私のことである。

    真の中心はじつはそこしかなく、この突出を究極的に平準化する方法はない。それはどこまでもあの基本形式に収まりきることはない。

  • (9)二重山括弧付き表記で表されていることの本質は、無内包の現実性を概念的に(すなわち内包化された形で)提示することによって、それを「ものごとの理解の基本形式」に適合させることにある。

  • (10)〈 〉と≪ ≫のあいだにはつねに(アキレスの突出と亀による平準化のような)闘争的関係が内在しており、そのことが累進構造を現実に駆動しつづけている。

第8章 自己意識とは何か

  • (1)≪私≫の識別の基準は前章のバージョンでは「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、思い出したり予期したりする人」であった。

    古いバージョンでは「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを直接動かせる、・・・・人物である」といったものであった。

    どちらにしても、この基準に従って自己を他者から識別しているとき、そこには自己認識が成立している、と言うべきであろうか。

    自己意識とは反省的・再帰的に自己を捉えるはたらきであるの対して、ここで生じているのは「現に見えている」とか「現に痛い」といった剥き出しの直接性だけなので、ここでは自己意識など成立していないというと見なすことが、まずは、重要である。

  • (2)まったく同様に痛いはずなのになぜか現実には見えていない人となぜか現実に痛い人、等々の対比がはたらいている。

    〈私〉が、あるいは≪私≫が、この対比を意識しているなら、それはもうそれだけで自己意識である、とまずはいえる。

    自己意識とはその場合、事象内容的な完全な同一性とそれにもかかわらずなぜか生じている現実的突出(という落差)の意識であ、ということになるだろう。

  • (3)並列的に複数の意識的存在者を想定しておいて、外部に向かう意識の志向性が反転しておのおの意識自身にむかったとき自己意識が生じる、というような絵が描かれることが多い。

    絵と言ったのは、この意識の志向性が文字通り実際に描かれるからだ。

    しかし、これは、幹から伸びていた枝が再び幹に達するようなことに、あるいはせいぜい、色々なところを触っていた手が自分の体を触るようなことに、すぎないだろう。

  • (4)回帰する矢印が象徴的に示しているのは、じつのところは矢印の絵が描くような事故へ回帰するタテの志向性(反省的志向性)ではなく、ヨコ方向の等質性からただ現実性においてのみ突出する様相てきな落差の自覚でなければならない。自己意識もヨコ問題なのである。

  • (5)三種の知がある。第一は、フィルムがその比喩である世界の客観的事実についての知である。

    第二は、現在の映像(その映像の内容ではなくそれが現在の映像であるということ)がそれの比喩である〈現在〉や〈私〉の(デカルト的な)直接知である。

    しかし、その二つだけではその二つを繋ぐことができない。

    第三に必要なのは現在の映像(それが現在の映像であることではなく、その映像の内容の側面)がそれの比喩である、〈現在〉や〈私〉がフィルム上に何かと同一で何かと結合していることの(言い換えれば、結合しているものがフィルム上の何かと同一であることの)知である。

    それは、〈現在〉であれば通常は主としてその時点の知覚状況、〈私〉であれば通常は主として来歴の記憶であろう。

  • (6)このフィルムと映像の関係が時計における文字盤と針の関係に類比的であることを見て取るはたやすい。

    しかし、その際には見逃してならないのは、時計からではウィトゲンシュタインが意図したような独我論論駁的な含意を引き出すことができないという点である。

    なぜか、それは、文字盤はフィルムと違って、針は現に今スクリーン上に映っている映像とは違って、つねに見えており、しかも針はつねに針の他の位置と対比されて「過去や未来と対立するものとして使われて」いるからである。

    針は、見掛けとに反して、先ほどの知の三分類でいえば、第二の〈現在〉ではなく、第一と第二の知の媒介知に対応している。

第9章 いかにして〈私〉や〈今〉は世界に埋め込まれうるか

  • (1)前章で提示した三種の知においては、一方的にではあるが、第二の独在知が第三の媒介知を介して第一の全体知へと繋がることができた。

    これはフィルムと映像の比喩で言うならば、それは、なぜか現に今映っている唯一の映像から出発して、その映像内容を基にして(それ自身を一部として含むような)フィルムの全体を(少なくともその概要を)構成するということである。

    前章で示した筋道はそのようなものではなかった。それは独在知(現に今映っている映像)から出発するとはいえ、全体知(フィルム)は初めから与えられており、その二つを、媒体知(映像の内容)を使って繋ぐにすぎなかった。(中略)

    しかし、現に映っている映像だけから、すなわちそれがそれあ現に映っているという事実とその内容だけから、フィルムの全容を、ともかくその骨格を構成することなどどうしてできようか。

    この課題は伝統的には、意識に内在するものからそれを超越する世界を構成するという超越論に対応する。(中略)じつのところはその仕事は、意識に内在するということの意味を広げて、カントのカテゴリーをはじめとする、内在するとも外在するともいえある種の超越力をはらんだもんのの助けを借りなければ成し遂げられない。

    問題はむしろ、そういう助けを借りさえすれば、(いかにして)成し遂げられるかである。

    助けを借りたとしてもなお、もっと根本的な発想をの転換を要求する、途方もなく困難な課題が待ち受けているだろう。

    それは、現に映っている唯一の映像だけから、すなわちそれだけが現に映っているという事実とその映像内容(直前に指摘した助け)だけを手掛かりに、可能な諸映像というものを構想し、おのれをそれらの一つとして位置付ける、という課題である。

    同種の他の諸映像などというものが端的に無いことにおいて同種の、他の諸映像の存在可能性を導き出し、それらと並ぶ一例として現に映っている映像を位置づけなおす、という課題である。

  • (2)さて、それでは、そこに収まらないことこそを特徴とするものについて「ものごとの理解の基本形式」を作り出しておのれをそこに収めるという仕事がどうして可能なのだろうか。(中略)

    実存と本質という伝統的対比を借りていうなら、それは、端的に実存するということによって、(暗に)特徴づけられていた事態から端的には実存していない、たんなる「実存する」という概念を作り上げて(すなわち実存という名の新たな本質を作り上げて)、おのれをその諸例のなかの一つとみなす、ということである。

    この驚くべき、ある意味ではほとんど信じがたいほどの知的な飛躍が、人間的ロゴスの始まりであろう。

    この驚くべき飛躍がほとんど問題にされないのは、哲学の問いがーー『デ・アニマ』や『アダルマ・コーシャ』から『存在と時間』や『ことばと対象』にいたるまでーーすでに完了した後の世界像を前提にしてそこから開始しており、この問題はつねに飛び越えられ隠蔽されてきたからである。

  • (3)要するに、中心性の問題の外に現実性の問題あることが考慮されていない。いいかえれば、タテ万代に終始しヨコ問題の存在が考慮の外に置かれている。

  • (4)現在という場のほうの現在と、現在のそれのほうの現在とが、ともに現在と呼ばれるのはなぜだろうか。

    答えは、端的な現在からその端的さの側面(すなわち現実性)を取り除いて、現在のあり方の本質的側面(すなわち中心性)だけを抽出し、そのうえでおのれをその一例と見なしたから、というものだろう。

    抽出された本質のなかには、現実性もまた概念(本質)化されたかたちで保存されている。

    すると、過去にも未来にも現在があることになる。過去はあったし、未来にもあるだろう。

    その結果、現在が動くとか、現在という静止した場に出来事が生起するといった、見方によってまったく意味をなさないほどの馬鹿げた考え方が、何の問題もない、極めて普通の考え方になる。

    現実には概念(本質)化して保存することによって」、「ものごとの理解の基本形式」から外れざるをえなかったものにそれを乗せることに成功したのである。

    現在は、むきだしの実存としての現在とその実存を本質化して保持した現在という二つの意味を持つことになった。

  • (5)さて、これまでの議論によって、現に映っている映像だけから可能な諸映像というものを構想し自らそれらの一つとして位置付けるという課題がいかにして果たされるか、について一つの道筋が見出されている。

    これはいわば、現に上映されている映像の内部からフィルム上に位置づける可能性が見出されたということである。

    これは主観的意識から客観的世界を構成する超越論的な世界像の議論とは違う課題に答えるものなので、そこを混同しないようにふたたび協調しておきたい。

  • (6)この事態は受肉と呼ばれてよいのだが、その意味するところは自分を物質化することにあるのでなく、もっと広く、複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすることに、ウィトゲンシュタインの言い方を借りれば「他のに境を接する者」とすることに、要するには「ものごとの理解の基本形式」に収めることに、ある。

    その何かある種のものは物体であってもよいが、必ずそうである必要はない。しかし逆に、身体というあり方をこの事態を象徴するものとして捉えることはじゅうぶんにありうることだろう。

第10章 人計から東洋の専制君主へ

  • (1)スクリーン上の映像の比喩を使って言うなら、最初になぜか存在しているそれは、現に今映っているという側面(すなわち現実性)にあたるが、これは本来、実在する世界に対して無関与的(無寄与的)であるはずのものだ。

    自由意志とはおそらくその無関与性(無寄与性)に関与(寄与)という という矛盾したあり方おことだろう。

    という意味では、それは身体という矛盾したあり方したものと同じ存在正確を共有していることになる。多数の身体をどんなにくわしく調べてもどれが〈私〉の身体であるかわからない(そんなものは実在しない)のと同様に、多数の身体運動をどんなにくわしく調べてもどれが〈自由〉による動作であるかわからない(そんなものは実在しない)。

    実在する世界の側からそこに到達するルートがありえないという意味でそれは実在していない。

  • (2)同じことを、〈私〉についてではなく、〈現在〉について語ると、少々不思議な語り口になる。無限の時間の中になぜか一点だけ現実に自由になる時点が存在している!ということになり、そのことこそが〈現在〉であること意味になるからだ。

    〈現在〉の場合には物質的身体の問題は特に関係していないので、たとえば思考の中だけで「今は他のことは考えずにこの問題だけを考えよう」と意志してそのようにするといった純粋に心的なはたらきなども自由意志によって引き起こすことができる。引き起こせるというそのことが〈現在〉であることになる。

  • (3)実在的世界の観点からすれば、〈私〉や〈現在〉はもともと幽霊のような仕方でそこに寄生しているにすぎないのだから、自由意思もまたそうであることにとくに驚くようなところはない。

    それらはみな実在には属さないとはいえ、そこから開かれる世界こそが文字通り還元不可能な現実性をなしているのでそのことを否定することは決してできない。

    (映像の側から見ればフィルムのほうこそが映像世界のあり方を整合的に説明すために作りだされた一つの話にすぎない。)

  • (4)身体と同様に言葉にも内側と外側がある。ここで内側とは発話主体の持つ「こういう意味で言った」という主観的(意図的)意味で、外側とは「一般的にこのように理解される」という客観的(制度的)意味である。

  • (5)各時点にそれぞれ「それしか見えなさ」があるという形で一般化しないかぎり、その各時点は特定の時点にさえなりえないのだ、と。

    ならなくてもよいではないか、と言われるかもしれないが、これには二つの答え方がありうるだろう。一つは、もうなってしまっており、こういう問いへの答えはそれを前提にしてなされてよいのだ、というものである。

    もう一つは、もしならなければわれわれが知っている時間が壊滅するというものである。この二つの答えは同じことを言っているように思えるかもしれないが、じつは違うことを言っている。

    これから私が言いたいことは、前者は時計だけでなく人計(人間身体)についてもいえるが、後者は人計についてはいえない、ということである。

    すなわち、時計は矛盾なしには存在しえないが、人間は矛盾なしに生きることも可能ではあるということである。

  • (6)ウィトゲンシュタインは、「この言語が任意のいずれの人をも中心としてとりうること」は明らかだと確認したあと、議論を次のように続けている。

    「ところで、種々の人間を中心としてとり、かつ私が理解するすべての言語の中で、私を中心とする言語は特別な位置を占めている。私はこのことをいかに表現できるであるおか」議論のこのステップはきわめて重要である。(中略)

    まず、第二ステップに登場する「私」を、なぜか与えられた世界においてその目からだけ世界が見えている・・・唯一の生き物であり、現実に世界がそこから開かれている唯一の原点であると解釈し、〈私〉と表記しよう。

    この〈私〉はきわめて素直な人間で、この与えられた事実通りに、この目からだけ現実が見えているし、この体だけが現実に感覚を感じる、等々と信じている。

    だれでも自分の置かれている現実を反省してみればすぐにわかるように、たとえそうであったとしても、通常は、自分だけ前段落で紹介したような言語を使う、などということは許されない。

    もしそのような言葉遣いを認めるなら、他人たちも同じ権利でその言葉遣いをしてよいことになる(すなわち「実痛みー虚痛み」の対比は「自痛みー他痛み」の対比に転化してしまう)

  • (7)ここで提起したい問おは、通常の他我問題の場合の懐疑論(他人たちには本当は意識はないのではないか)とこの専制君主の逆懐疑論(他人たちには本当は意識があるのではないか)とではどちらがより困難な懐疑論であろうか、という問いである。

    ただし、これはあくまでも現実性の累進可能性についての問いなので、「意識がある」というのは便宜的な語り方であって、彼らもじつはになそれぞれ(彼らにとっては)〈私〉なのではないか、というのが精確な語り方である。

    その意味するところはそれぞれの人は第一基準によって自己を識別している(彼らにとってはそれぞれ現実に)そこから世界が開けている唯一の原点であるという意味である。

    この世界においてわれわれは他者をそのように捉えている。これは大変に不思議なことだといえる(〈私〉が存在していることの次だが)。

    というのは、〈私〉、の存在とは、まさかそこから世界が開けている唯一の原点が(今はなぜか)現実に存在している!という端的な事実を意味しており、それはまた、実在的には同類であるはずの(すなわち聞こえたり痛かったり悲しかったり欲していらり・・・するはずの)多くの普通の人間たちとは違って、という意味をすでに含んでいるはずだからだ。

    もしそのそういう普通の人間たちもそれぞれ(それぞれにとっては)そこから世界が開けている唯一の原点であるとしたら、私自身も私にとっては〈私〉であるだけのことになってしまうだろう。

    そうであるなら、それは私が生まれる前や死んだ後の世界でも成り立つのと同じことが成り立っているだけであることになってしまう。

第11章 他者の問題

  • (1)他者とは「他の〈私〉」であり、それゆえつまり、《私》のことである、と。すなわち、概念(内包)的にはどこまでも〈私〉とまったく同じ種類の存在者なのに、なぜか現実にはそうではない者のことである。

    このような提示の仕方をすると、早速に二つの問題が浮かぶ(この二つは本質的には同じ問題かもしれない)。

    一つは、他者どうしの間にも(これまたもちろん概念的にだが)これとまったく同じ関係が存在するはずだ、ということである。

  • (2)もう一つはもっと内在的な問題である。「~なのに、なぜか現実にはそうではない者」は「他者」の定義である。だから、それを疑うことに意味はない。

    とすると、東洋の専制君主の思考実験のように、他者が現実に〈私〉である場合とそうではない場合を考えてみるといったことにはそもそも意味がないではないか、と思うひとがいても不思議ではない。

第12章 唯物論的独我論者の苦境

  • (1)意識というものは本質的に、だれでも自分の意識状態は体験できるが他者のそれは体験できない、というようにできている。

  • (2)唯物論者の彼はこう考えるだろう。現在の世界においては、なぜか現実に体験できる意識状態が存在しており、それはなぜかこれである。このことは、そこに何らかの物理的な違いがあることによってしか説明がつかない。

    そして、このことは意識というものがもつとされている私秘性という一般的な性質とはーーー自分がその存在を検証することができないそういう事実がかりにあるとしてもーーーまったく別の問題である。

  • (3)哲学者としての彼は、私秘性の問題と独在性の問題(いいかえれば中心性の問題と現実性の問題の)根源的な差異の洞察によって、その不可能性が東洋の専制君主の場合とは異なる理由によっていることを洞察している。

    それにもかかわらず、依然として「ものごとの理解の基本形式」には固執する彼は、そこに物理的根拠を求める唯物論的独我論の道しか残されていないのだ。

    彼がこの道から脱するのはかのは可能だろうか。別tの道を見出すことはできないにしても、彼が唯物論的独我論の道もまたありえないことを洞察するにいたる可能性はあるだろう。

終章 中心性と現実性の派生関係

  • (1)「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したする人」とか「その目から世界が現実に見え、その体だけ叩かれると現実に痛く、その体だけを現実に直接動かせるA系列とB系列のあいだの派生関係の問題として議論される問題は、「時間の非実在性」の「付論」などで私が導入した分類にしたがうなら、これはむしろA事実とA変化のあいだの派生関係の問題であり、時間問題を離れて一般化するなら、現実性と中心性のあいだの派生関係の問題である。

    すなわち、一般的な諸中心性がまずはあって、そのうちの一つがなぜか現実的な中心であるのか、それとも、唯一の現実的な中心がまずはあって、それが相対化されて一般的な諸中心性が考えられるのか、という問題である。

  • (2)独在性(現実的な中心性)のポイントは「これしかなさ」にある。それゆえ、「あるものが何かを表象するということは、そのもの自身を表象するのであろうと別のものを表象するのであろと、そのあるものがすることでしかありえない」というあたりまえのことに付け加える事実は、「そして現実にはなぜか、そのあるもののする表象しか存在しない」という事実である。

  • (3)独在性の問題ぬきに経験的事実だけからなる私秘性ということを、じつはわれわれは想定する能力がない。私秘性という事態を客観的に想定する能力自体がじつはないのだ。

    現実には唯一の実例であるものがここにあって、その事実を累進的に適用することによって(結果的におのれ自身をその一例と見なすことによって)しか、その事態の意味は理解できない。

    だが、おそらくはその逆に、経験的事実による支えのないたんなる独在性ということのほうは考えられるであろう。

  • (4)これは、きわめて単純に表現するなら、すべての他人の心がいわば丸見えで、すべてが(ありありと思い出させるのと同じように)ありありと感じられ、そのいいでは完全な間主観性が成立していても〈私〉存在しうるだろう、というようなことである。

  • (5)〈今〉や〈私〉はなぜ一つしかありえないのだろうか。その理由は世界の独在論的存在構造が与えているだろう。

    現実にもそうであるあると同時に概念的にもそうである(すなわちある世界をただ構想するだけでもその世界はそういう世界を具備している)理由は、前節の議論が与えるだろう。

    しかし、われわれが理解する時間が存在するかぎり〈今〉があると考えざるをえないが、生き物が存在するかぎり〈私〉が存在すると考えざるをえないわけではないだろう。とすれば、この違いは何に由来するのだろうか。

    その理由は、時間が(マクタガートも言うように)本質的に独在論的に(つまりA事実を含んだかたちで)しか考えられないのに対して、人間世界は非独在論的に(つまりまったくのっぺりと平板に)存在することもできる(といように構成されている)からである。

  • (6)この世界像は、世界にもし、たんなる物体というものが存在しなければ、そしてわれわれもまたたんなる物体の一種であるという側面をもたなかったなら、時間の場合と同様に、全面的に真理であったかもしれない。

    現状ではしかし、それは一面の真理でしかない。とはいえ、一面の真理であらざるをえないのである。


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