「身体の本質」について(2)
時間性と空間性
一つの感覚ー情動の生起は、それが繰り返されて同じものの反復として把握されるとき、初めて一つの経験、一つの記憶と呼ばれるものになる。このとき、身体は最も始元的な時間性として存在しはじめる。
生き物が、外的接触による感覚ー情動を展開して遠隔知覚をもつとき、生き物は世界を空間性として存在させ、時ー空的な世界が開かれる。
遠隔知覚は生き物にとってまず対象との隔たりを問題化するが、生き物の諸器官の配置が分節されている場合には、対象の方向性も問題化する。
ここで、コブラとマングースの闘いで、常にマングースが勝つとされている話しを思い出した。
生き物によって、知覚できる瞬間の長さは異なるようです。つまり、生き物それぞれが知覚できる世界が違うのです。
マングースはコブラよりも知覚できる長さが圧倒的に短いので、コブラの動きはスローモーションのように見えて、簡単にかわすことができるのでしょう。見かけの身体に関係なく、マングースの身体能力は高いようです。
戻します。
フロイトの「快感原則」は、「心的な装置はその中に存在する興奮量をできるだけ低くしようとするか、少なくとも恒常を保とうする」という仮説に基づくものです。
この仮説に対して、竹田青嗣氏は、次のようにコメントする。
こうして、飲みたいという欲求は、喉の渇きをうるおしたいということと、飲んだ後に、すっきりとしたという快感があるだけだ、と言う。
喉の渇きに我慢できずに水を飲んだとき、そこで、全身がうるおったという快感は得られるが、不快を取り除きたいという気持ちがあるわけではない。
快の本性はいわば「もっと」を求める「力への意志」であって、回帰への欲望とはいえない。いいかえれば、快の第一義的本性は、「乗り越え」であって「打ち消し」ではない、と述べる。
何らかの苦痛から解放されたとき、大きな快が生じることは確かであるが、この場合には。不快(苦痛)な状態が消えたこと、すなわち定常状態に戻ったことが快といえるだろう。
瞬間的な苦痛が消えたときは、快といえるかも知れないが、長い時間をかけて不快(苦痛)が、いつのまにか消えたという場合は、不快が消えたという意識においてある種の快が生じるが、それは、身体において快が生じたとはいえない、と言う。
生物学者ならば、生命の維持のために水を飲むのは快であると答えてよい。しかし、本質洞察の観点からはこの答えにはほとんど意味がない、という。
水が飲みたいというような欲求は、生き物の死の衝動に奉仕しているのだという推論は、人間が恋をするのは人類の種の保存の欲動の現われであるという空想的推論と同種である。
人間的事象の「本質」について洞察することが問題である場面では、こうした一切の種類の空想的仮説をエポケー(判断停止)する習慣を身につけるべきだ、というのです。
欲望に駆られること。
希望と予期への激しい欲求。
エロス的対象を充分に享受し、味わい、耽溺し、飽満して満足すること。
これらは身体の機能的本質ではなく、実存的ー主権的身体のエロス的経験における本質的秩序である、と叙述する。
参考図書:竹田青嗣著『欲望論』 第2巻「価値」の原理論
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