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「無常」とは

『平家物語』でお馴染みの「諸行無常」の「無常」とは、「すべては移ろう」ということで、万物は時々刻々と変化していき、永遠不滅なものはどこにもないという意味になる。

仏教学者佐々木閑氏は、あらかじめ無常という真理を受け入れておくべきだという。そうすれば、下記のような気持ちになれるというのです。

いざ という 時 に 寿命・地位・財産・名誉・地位。財産。名誉などに執着することもなくなるし、普段から今の一瞬一瞬を大切にして生きようという気になれる。

佐々木閑; 宮崎哲弥. ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書) (pp.210-211). 新潮社. Kindle 版.

超ミクロの視点から見れば、量子の集合体である物質世界全体が、刹那と呼ばれるきわめて短い時間に次々と生まれかわるということになる。

変化する仕方も、スムーズに変容するのではなく、一刹那ごとに、今ある存在はすべて消え、よく似ているが、まったく別の存在が現われるのです。

下記は、上座部のスマナサーラ長老の言葉です。
「人間には比較対照する思考の癖があるのです。それで世間の人は、『変わる』を発見するために『変わらない』を作ります。」

これは現代の哲学者の、仏教の無常についての典型的な誤解を予め封じる説法になっている。

宮崎哲也氏は、典型的な誤解の例として、永井均氏の次の発言をあげています。

( 仏教 では) 無常ということがしばしば説かれ、この世のすべてのものは生滅・変化して同一にとどまることがない、などと言われる。
しかし、そもそも生滅や変化は何かが同一にとどまることを前提にして成り立つ概念である。

たとえば運動(空間的位置の変化)であれば空間の同一性、不変性が前提となる、というように。この世のすべてのものが無常であるという教説はそもそも意味をなさない。
「永井均、藤田一照、山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』」

佐々木閑; 宮崎哲弥. ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書) (p.219). 新潮社. Kindle 版.

永井氏の発言については、誤解だというぐらいの指摘です。藤田氏は僧侶であり、山下氏も住職という、れっきとして仏教のプロであるにもかかわらず、宮崎氏と同様の指摘をしないことについて、奇妙さを感じている。

なにしろ、仏教の教理の基本でもある「無常」を意味をなさないと、否定しているわけですから、そのまま見過ごしているのは解せない。

社会学者橋爪大三郎氏の発言については、次の通り、かなり怒っています。

すでに 二十年 も 前 に 否定 さ れ て いる 平川 氏 の 仏塔 信仰 起源 説、先に振れた橋爪・大澤両氏の共著『ゆかいな仏教』であたかも定説であるがごとく語られています。

何でもいいんですが、社会学などという、かなり適当な学域の研究者でも、一応学者なんだから、他領域に口を出すときは最低限の先行研究を調査してから容喙したらどうか、と一読怒りを禁じ得ませんでした。

佐々木閑; 宮崎哲弥. ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書) (p.266). 新潮社. Kindle 版.

橋爪氏といえば、社会学の大御所ですが、こうした面もあるようですね。社会学者の宮台真司氏も、社会学は、様々な分野を横断的で果敢に切り込んでいかないと成り立たないと述べていた。

これは、大前提となるでしょうが、他の分野に乗り込むときは、やはり、最低限のマナーは必要だということでしょう。

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