「無常」とは
『平家物語』でお馴染みの「諸行無常」の「無常」とは、「すべては移ろう」ということで、万物は時々刻々と変化していき、永遠不滅なものはどこにもないという意味になる。
仏教学者佐々木閑氏は、あらかじめ無常という真理を受け入れておくべきだという。そうすれば、下記のような気持ちになれるというのです。
超ミクロの視点から見れば、量子の集合体である物質世界全体が、刹那と呼ばれるきわめて短い時間に次々と生まれかわるということになる。
変化する仕方も、スムーズに変容するのではなく、一刹那ごとに、今ある存在はすべて消え、よく似ているが、まったく別の存在が現われるのです。
下記は、上座部のスマナサーラ長老の言葉です。
「人間には比較対照する思考の癖があるのです。それで世間の人は、『変わる』を発見するために『変わらない』を作ります。」
これは現代の哲学者の、仏教の無常についての典型的な誤解を予め封じる説法になっている。
宮崎哲也氏は、典型的な誤解の例として、永井均氏の次の発言をあげています。
永井氏の発言については、誤解だというぐらいの指摘です。藤田氏は僧侶であり、山下氏も住職という、れっきとして仏教のプロであるにもかかわらず、宮崎氏と同様の指摘をしないことについて、奇妙さを感じている。
なにしろ、仏教の教理の基本でもある「無常」を意味をなさないと、否定しているわけですから、そのまま見過ごしているのは解せない。
社会学者橋爪大三郎氏の発言については、次の通り、かなり怒っています。
橋爪氏といえば、社会学の大御所ですが、こうした面もあるようですね。社会学者の宮台真司氏も、社会学は、様々な分野を横断的で果敢に切り込んでいかないと成り立たないと述べていた。
これは、大前提となるでしょうが、他の分野に乗り込むときは、やはり、最低限のマナーは必要だということでしょう。
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