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ハイデガーの解釈学的現象学(6)最終回

引続き、榊原哲也氏共著『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケアー』に基づいて学びます。

今回は「先に跳んで手本を示す気遣い」について、描きます。これについて、ハイデガーは、次のように述べる。

特定の他者のために尽力するというよりは、その他者が実存的に存在しうるというあり方の点でその他者に手本を示すような、そうした顧慮的な気遣いの可能性が成り立つのだが、これは、その他者から「気遣い」を奪取してやるためではなく、その他者に「気遣い」を気遣いとしてまず本来的に返してやるためなのである。

こうした顧慮的な気遣いは、本質的には本来的な気遣いに──言いかえれば、特定の他者の実存に関係するのであって、その他者の配慮的な気遣いの対象になっているものに関係するのではないのである。

そしてそのような顧慮的な気遣いは、その他者を助けて、その他者がおのれの気遣いのうちにあることを見通し、おのれの気遣いに向かって自由になるようにさせるのである。

ハイデガー. 存在と時間I (中公クラシックス) (p.350).
中央公論新社. Kindle 版.

この気遣いは、特定の他者に跳び込んで気遣いするのではなく、その気遣いを「本来的に返してやる」べく、その他者の実存可能性に関して、前もってその他者の先に出て、手本を示すために、実行してみせることである。

これは、現代でも企業理念として通じている、山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」という有名な語録にも通底しているように思える。

ここで「本来的な気遣い」とは、どういうことだろうか。

ハイデガーは、「世人であること」、普通の人間として日常的に生活していることを、「本来的な」存在仕方から何らかの理由から「頽落」している、と主張している。

ハイデガーが言う「世人」とは、「人が楽しむとおりに楽しみ興じ、人が見たり判断したりするとおりに文学や芸術を読んだり見たり判断する」、「SNS上で他者を批判している人の記事に深く考えもせずに同意のコメントして、いいねボタンが増えることを期待する」ような、まさに私を含めた人々のことである。

そこで、ハイデガーは、人は誰でも死を向かえるのだから、それを先駆的に自覚して、「世人」的な生き方(非本来性)から「本来的」な在り方(本来性)を追求すべきだと言うのである。

自分の死の可能性に向けて「先駆」することによって、追い越し不可能性に向かって「自由に自分を解放し」、在るべき本来的な自分自身(本来的自己)を選びとる。

実際、現存在は「気遣いの呼び声」である「良心」の、その呼び声に応じて、自分自身が「非力」で「負い目がある」ことを自覚し、「良心を持ちたいと意志すること」(決意性)において、死という可能性において先駆する。

このようにして自分の死へと先駆け、自分を在るべき固有の自分へと到来させることによってこそ、現存在は、自分がすでに経てきたこれまでの非力で負い目ある在りようを改めてありのままに引き受け(既在)、そのときどきの状況のなかで道具と現に向き合い(現成化)、決意しつつ行為していくことができるのである、とハイデガーは言う。

つまり、「先駆的決意性」とは、「既在しつつ現成化する到来」という構造となる。この構造こそが、「時間性」と呼ばれるものである。

この「時間性」こそ、現存在の最も本来的な存在の仕方である「先駆的決意性」という「本来的気遣い」が、それに向けて・あるいは基づいてこそ了解されるところの「本来的気遣いの意味」、すなわち最も本来的は現存在の意味にほかならない。

かくして現存在に問いかけ、現存在の存在を問い、現存在の存在の意味を問い確かめるという、「現存在の実存的分析論」たる「基礎的存在論」の課題は、果たされたのである。

気遣い一般は、何らかの未来に目がけて、過去の経験を踏まえつつ、今、何らかの物事や人々に関わるという時間的構造を具えており、これは、自分の死へと先駆して決意する本来的な自己への気遣いにおいても、日常の(非本来的な)配慮的気遣いや顧慮的気遣いにおいても変わりはない。広く「ケア」と呼ばれている営みの多くも、日常(非本来性)の気遣いの在り方においてなされており、上記の「時間性」を具えていると考えられる。

そこで、「ケアの現象学」においては、先駆的決意性を強調して「時間性」を理解するよりもむしろ、〈何らかの未来を目がけて、過去の経験を踏まえつつ、今、何かを気遣う〉という現存在に時間的構造が、総じて「気遣い」という在り方一般を成り立たせていることを重視したい。

今回で、「現代に生きる現象学ー意味・身体・ケアー』に基づいた「ハイデガーの解釈学的現象学」は終了します。 

こうして見ていくと、ハイデガーは当初は敬虔なカトリック教徒として、キリスト教神学の研究から出発したと言われているだけに、非本来性を「頽落」したとする見方は、キリスト教の原罪説を意識しているように、思われる。

他にも、「現代に生きる現象学」ついて投稿しましたので、ご参考用として添付します。





        

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